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堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(旧稿)   

 AtsukoさんのHPに津村信夫の話題があって、そういえば信スケのことを書いたことがあったぞと思い出し、旧日記から3年前に書いたものを引っぱりだしてみました。
 津村信夫が亡くなる前年の9月(1943.9)、“戸隠にいる筈の津村信夫を日塔聰と三人で尋ねたが、津村信夫は一日違いで帰ったあとだった。戸隠そばをたくさん食べて山を下り、別所温泉に一泊、軽井沢に帰る。”(『堀辰雄の周辺』)その顛末を紹介したものです。
 我ながら読みづらい文章ですが、堀多恵子さんを偲ぶ思いもこめて――これを書いた時ご存命でした――再録しておきます。


■2008/03/30 (日) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(一)

 かつて新潮文庫にあった堀辰雄『妻への手紙』(堀多恵子編)巻末の多恵子さんの「辰雄の思ひで」の中に、別所温泉(長野県上田市)の話題に関連して、日塔聰さんの思い出が記されています。

 “別所温泉は上田から電車で三十分ほど奥の小さい温泉場ですが、足休めに丁度いい場所なので私たちは何度も行きました。津村信夫さんんを訪ねて戸隠に行った帰りに、日塔聰さんと三人でもう暗くなりかけた別所に着き、赤痢か何かがこの町に出たあととかで、ほとんど宿屋が休業してゐるのを其処に行って始めて知り、仕方なくあまり綺麗でない宿に泊まりました。背の高い日塔さんの足が安宿の短いふとんから出るので日塔さんは困るし、私はなんだそれがをかしくてしやうがなかったことなどおぼえてゐます。”

 ・・・と、――3/14項の日塔聰に関連して――、桜桃花会さんのブログ「雪に燃える花」書かさせていただいたのですが、きょう立ち寄った室生犀星記念館の書架で、堀多恵子さんの『堀辰雄の周辺』(角川書店/1996.2)を見つけました。このエッセイ集の「日塔聰」の項〔1948年の「あらの」日塔聰追悼号に寄せたものの再録〕にも、上に紹介した別所温泉の話が、記されていました。

 “戸隠に津村さんをたずねた日も日塔さんは一緒だった。津村さんがすでに山を下りてしまわれたあとだったので、私たちは津村さんの好きだった場所を教えて貰い、其処へ行き、周囲の山々、目の前に広がる原っぱを見渡しながら、秋風に吹かれて立っていた日のことが鮮やかに甦ってくる。その翌日山を下りて別所温泉の小さい宿に泊まった。日塔さんは背が高いので蒲団から足が出てしまう。私はなんだか気の毒で、その辺にあった座布団を足の方に置くと、彼は足を縮めて困っていた。そんなたわいないことを覚えている。”

 このエピソードは、上記『堀辰雄の周辺』巻末の「堀辰雄の生涯――年譜風に」によれば、1943(昭和18)年9月初め頃のことのようです。“戸隠にいる筈の津村信夫を日塔聰と三人で尋ねたが、津村信夫は一日違いで帰ったあとだった。戸隠そばをたくさん食べて山を下り、別所温泉に一泊、軽井沢に帰る。”

 ――――実はこの翌年、津村信夫はアディソン病という難病で亡くなるのですが、戸隠の津村信夫訪問のエピソードをめぐっては、堀辰雄と日塔聰とのそれぞれの手紙〔小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』所収〕が残っていました。そんなことの紹介はあらためて・・・。



■2008/03/31 (月) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(二)

 津村信夫が亡くなる前年(昭和18年)の、津村を訪ねての三人の戸隠行がよほど印象深かったとみえて、堀多恵子さんは『堀辰雄の周辺』の「津村信夫」の項にも、この戸隠行のことを書いておられます。その部分を引用しておきます。

 “津村さんが亡くなる前年の初秋にも、大好きな戸隠に行っている。これから戸隠に行くと言って軽井沢に来られた時、おや、と思うほど顔色も悪く痩せて見えた。あとから行くと約束し、丁度来合わせた日塔聰さんと三人で津村さんの泊まる坊に行くと、前日、山を下り、もう津村さんはいなかった。彼が好きでよく行ったという越水ケ原を教えて貰い、私たちは歩いてそこへ行って見た。山々を背景に広々と開けた高原を冷たい風が渡り、梅ばち草やつりがねにんじんが寒そうに最後の花を咲かせていた。”



■2008/04/01 (火) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(三)

 堀多恵子夫人が紹介してくださった、結局はすれ違いに終わってしまった、津村信夫を訪ねた戸隠行〔S18.9〕の3つのエピソードを頭にいれておけば、日塔聰が東京に帰った直後に津村信夫に出した書簡〔A〕と、その翌年堀辰雄が津村信夫の死を知り兄の津村秀夫宛てに出した書簡〔B〕とに書かれている内容が、よくわかることと思います。(兄秀夫宛ての手紙にもかかわらず、堀辰雄が途中で、“君――”と亡き信夫に直接呼びかけているのが、印象的です。)

 まず日塔聰の書簡〔A〕:S18.11.16

 “御無沙汰致しましたが、其後お変りございませんか。
 夏の終わりに堀さんと戸隠に行きましたが、丁度行き違いになりまして残念でした。越水ケ原には梅鉢草が咲き盛ってゐました。それから杉木立の間の道で火事の様子をあれこれと想像したりしました。
 夏からの山暮しを漸く今日引きあげて参りました。何も彼もバリバリに凍ってゐる朝、浅間を染めた冷い光が谷間を温めるまでの時間や、冷えていく夕方に煙ってゆく木々の様子などがいま東京に来て、何か大事な記憶のやうに浮かんで来ます。”

 堀辰雄の書簡〔B〕より抜粋:全集ではS19.6.30

 “けふ室生朝己君よりのお手紙にて津村君が二十七日にお亡くなりになったことを知り非常に驚きました。(中略)
 去年の九月に戸隠にゆかれる途中で此処に立ち寄られたとき、津村君が非常に痩せられたことに胸を潰されるやうな思ひでしたが、そのとき僕も戸隠に津村君を訪ねることを約して別れましたのに、僕が戸隠にのぼっていった日がすこし遅かったために津村君が戸隠を下りた日の翌日になり、遂に戸隠で君にお逢ひできなかったことは僕の一事心残りのことになってゐました。そのうちまたいつか戸隠で君と一しょになることを思ひわづかに心を慰めてきました。”

 *書簡は、小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』(帝塚山学院大学日本文学会・岩田書院/1995.8)より



■2008/04/03 (木) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(四)

 小久保實編『津村信夫 書簡・来簡集』――これはすべて写真版で書簡が載せられている得難い書簡集です――所収の津村信夫宛て丸山薫の〔昭和19年6月9日消印〕はがきにも日塔聰の名前を見つけました。
 はがきの隅っこに追い書きの小さい文字で、“日塔君 教育召集にて月末入隊”の文字が読めます。
 (日塔聰は6月20日に山形連隊に入隊していますから、津村信夫の死〔6月27日〕を知ったのはこの教育召集の入隊中のことだったのでしょうか。この前後、犀星とも交流のあった山形の詩人竹村俊郎のところに犀星の息子朝己が滞在中だったようですが、この朝己から堀辰雄は津村信夫の死の報を受けています。〔4/1の書簡〔B〕参照〕)

 日塔聰は入隊中に、出身校寒河江中学の先輩で当時岩根沢国民学校の教頭をしていた那須貞太郎と偶然出会い、出征教員の後任を探していることを聞きます。この情報が、のちに“海の詩人”丸山を、聰が自分の故郷の山形、それも山あいの出羽三山信仰の宿坊の地・岩根沢に「教員」として呼ぶことになるのですから、不思議なものです。
 さらにこの不思議のあとに、日塔聰と逸見貞子との運命的な出会いが用意されていくことになるのです。

〔追記〕
 ちなみに、丸山薫が堀辰雄の5年前の1899年の生まれ、その5年前の1894年に田中冬二が、さらにその5年前の1889年に室生犀星が生まれています。なぜか「四季」に関わった人々に、継起する9年生まれと4年生まれ(西暦)がいるのがこれまた不可思議なことに思えます。



■2008/04/02 (水) 堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰(余録)

 《堀辰雄夫妻、津村信夫そして日塔聰》――――とつぜん、前後の脈絡から切り離されたエピソードにスポットが当てられたような、そんな話題の取り上げ方になってしまい恐縮です。

 日塔聰・貞子夫妻という今年になるまでまったく名前さえ知らなかった詩人のことを、名前は知っていても『風立ちぬ』など読もうという気持ちのなかった堀辰雄とともにこのように取り上げていることの不思議を思ったりしているこの頃です。

 昭和十年代という時代を考えると、「四季派」と呼ばれる詩人群の創作活動は――詳しい説明は割愛させていただくしかないのですが――、私に共感と勇気を与えてくれます。
 そうしたこととまったく別の話ですが、堀辰雄が1904年の生まれ、津村信夫が5年後の1909年の生まれ、立原道造がさらに5年後の1914年の生まれ、日塔聰がさらに5年後の1919年の生まれであること。この階層的かつ螺旋的な四季派そのものの生い立ちが、軽井沢、戸隠といった地誌的彩りとあいまって、魅力的であることも、付け加えておきたいのですが。

 折をみて、昭和十年代の「四季派」を、追ってみたいと思っています。



■2009/01/05 (月) 津村信夫さんの誕生日

 津村信夫さんの生誕100年の日。

   1909.01.05~1944.06.27

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 亡くなった年の日記(5.4)に残されていた師・室生犀星(号・魚眠洞)への歌

       魚眠洞先生を思ふ。
   我は病み堀の辰雄は立たずてふ 馬込の春は寂しかるらむ
   枝ながら紅の梅たまはりし 馬込の大人(うし)を思ほゆるかも

〔追記:2009.1/7〕
 久世光彦氏の『花筐(はなかたみ)――帝都の詩人たち』(2001.7/都市出版)というエッセイ集に、津村信夫について書かれた秀逸な2篇が収められているのをきのう知りました。残念ながらこの本は絶版で、古書価格もけっこう高値です。文庫化されることを望みます。

by kaguragawa | 2011-02-28 23:18 | Trackback | Comments(2)

Commented by Atsuko at 2011-03-01 10:26 x
こんにちは
だいぶ以前になりますが四季派の詩人達の周辺を逍遥していた時期があり、懐かしい名前に再会したような感慨があります。堀多恵子さんの『葉鶏頭』など読んだ記憶があります。
雪国へのあこがれから、「お正月は何したい」と聞かれると「雪に囲まれて過ごしたい」と答えていましたので、別所温泉、リゾートホテルになる前の星野温泉などでこたつに入ってのんびり過ごしたお正月がありました。雪の金沢でお正月に夜間解放される兼六園を歩いて、肩を組んで陽気に騒ぐ金沢大生らしき気持ちの良い若者達に、さすが四高伝統の地と思ったお正月もありました。
Commented by kaguragawa at 2011-03-09 00:22

Atsukoさん、コメントありがとうございます。「四高」といえば、上の「 宮沢賢治の国民高等学校」に名前をあげた“加藤完治”も第四高等学校の出身者ですね。あっ、そうそう牧水の歌については、あらためて・・・。
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