身元不明の行路病死者、藤澤清造と判明   

 この頃このブログへの訪問者が通常より微増である。
 もしかしたら…と考える。 西村賢太氏の芥川賞受賞で間接的に注目を浴びた“藤澤清造”のせいなのかもしれない。
 藤沢清造の年表には、“三島霜川が”登場するから、西村賢太→→藤澤清造→→三島霜川と、検索が進むとすれば、拙ブログにたどりつく人がいるのでは・・・と推測してみたわけである。

 藤沢清造は石川県北の中能登、鹿島郡七尾町(現七尾市)に生まれた作家だが、18歳で上京、役者志望のまま定職もえられずいたところを同郷の安野助多郎の紹介によって同県金沢出身の徳田秋声に面識を得る(22歳頃)。そして秋声が三島霜川を通して(当時、霜川は「演芸画報」に好評の「近世名優伝」を連載していた)“演芸画報社に”紹介する。――ということで、仕事もでき清造と霜川の接点もできたようなのである。

 そして、西村氏による藤澤清造の《大大略年譜》によれば、放浪の作家・藤沢清造の最期は次のようなものだった。
 (林哲夫さんのブログ《daily-sumus》の記事「藤澤清造全集内容見本」(1/29)から引用させていただく)

 昭和七年 空家へ入り込んで拘留される。一月二十五日より行方不明となり、二十九日朝、芝公園の六角堂内で凍死体となっているのが発見される。三十日、身元不明人として桐ケ谷火葬場で荼毘に付される。二月一日、〔早瀬〕彩子が検屍写真によって身元確認。十八日、徳田秋声らによって芝増上寺にて告別式が行なわれ、辻潤、近松秋江、佐藤春夫、尾崎士郎ら百人を越す人々が集まった。

 『徳田秋聲全集』の「年譜」の「昭和七年(1932)」項によって、補うとこうである。

 二月一日、藤沢清造が二十九日に芝公園で凍死していたことが判明する。四十四歳。
 二月十八日、藤沢清造の葬儀を芝増上寺別院源興院で。秋聲、三上於菟吉、久保田万太郎らが尽力したもので、百人を超す人々が参列。


 なお、三島霜川もこの「百人を越す人々」の中にいたと思われるが、霜川側に何の資料もない。

〔追記〕
 藤澤清造の生地については、「石川県鹿島郡藤橋村ハ部三十七番地」としているものが多いが、清造の生まれた1889(明治22)年10月28日の時点では、「市町村制」が同年4月に実施されており、公的な地名としては「藤橋村」は消滅しているので、生誕地表記としては「藤橋村ハ部」ではなく「七尾町(大字)藤橋ハ部」とすべきであろうと思われる。(カタカナ文字イロハ・・・が入るのはこの地の特徴)

〔追記:2/9〕
 「藤沢清造の生誕地は、結句、現在のどこなんですか?」と――“結句”というのは西村さんの口ぐせですが――、お尋ねの方が、おられるようです。が、自分の足で行ったことのない場所を、確信を持ってここに書き込むのにはためらいがあります。雪解けを待って、私が「ここだ」と思っている場所に足を運んだあとに(碑などがあるという話は聞いたことがないのですが)、あらためて報告をかねて書かせていただきたいと思います。

 ただし、地図上で探そうと言う方には、次の情報だけ(といっても回りくどい話になりますが)お伝えしておきます。
1)上に、「鹿島郡藤橋村」が「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」になったと書きましたが、「鹿島郡藤橋村」がそのまま「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」になったのではなく、「鹿島郡藤橋村」は明治22年4月の時点で、「鹿島郡七尾町(大字)藤橋」と「鹿島郡矢田郷村(大字)藤橋」に分かれています。 私の確認できたところでは「藤橋村ハ部」の地帯は、「矢田郷村」ではなく「七尾町」の「藤橋」です。
2)現在の七尾市内には、「藤橋町」「西藤橋町」「南藤橋町」「北藤橋村」など、“藤橋”の名を引き継いだ町名がいくつかあるように、大字藤橋は、いくつかの地区に分かれています。では、藤沢清造の生誕地は、そのうちのどこかというと、それらの「藤橋」を冠した町ではなく、私が資料を読み違いをしていなければ「馬出町」のはずです。
3)今ではweb上でも番地を探すことが可能ですから、「七尾市馬出町ハ部36」ないし「同ハ部38」辺りを探してもらえればよいかと思います。
4)地元の方にお願いしたいのですが、もし以上の記述に間違いがあるようでしたら、ぜひ教えてくださるようお願いいたします。

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by kaguragawa | 2011-02-01 23:35 | Trackback | Comments(0)

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