大逆事件弁護人・磯部四郎のこと
2010年 12月 23日
以下、その磯部四郎をめぐる感想的なメモ。
磯部四郎の名前を知ったのがいつだったのか、はっきりと思い出せないのですが、以来わたしの磯部についての知識は「富山県出身の明治期の法律学者」といった漠然としたものであり続けました。その磯部四郎の名前を大逆事件の公判記録のなかで見つけて驚いたのは、ことしの6、7月のことだったと思います。何も知らず、何も調べずに、三流の法律学者と思い込んでいた私は、幸徳秋水らの弁護人のなかに磯部四郎の名前を見つけて、いささか、慌てました。
かといって大逆事件の公判の記録を、という前にその記録の在り処かを、確かめそれに接する余裕もなく、日をすごしてきたのです。その事情は今も変わっていないのですが、もう一つ驚いたのが我が富山県の高岡法科大学で「富山が生んだ法曹界の巨人磯部四郎」というシンポジウム」(2005年12月10日)が行われていたという事実です。そして、最初に記したわたしの衝撃に近い驚きはこの時のシンポジウムを中心に編まれた『磯部四郎研究』によるものなのです。
磯部の法学者、法曹家としての八面六臂の活躍の第一歩は、司法省法学校を第一期として卒業し、1875(明8)年にパリ大学法学部に留学し、1878(明11)年末に帰国したところから始まるのですが、そのときから憲法を頂点とする23年体制と呼ばれる明治期の近代法体系の創出にボアソナードのもと、みごとな法感覚でその法典編纂に深くかかわっていくのです。その学的業績については渡辺左近さんが、“磯部が他の司法省法学校卒業生に比べてきわだつ特徴は、法律学のほぼ全分野にわたって著作物を残したことである。このような例は、私の知る限り日本には存在しない。”“「日本の法律学は帝大三博士〔穂積陳重・梅謙次郎・富井政章〕から始まった」とする大雑把な認識は今後見直されていくことになろう。”と概括して言われるのにも驚いたのですが、なんと彼がイェーリングの『ローマ法の精神』の訳まで手掛けている(1888)ことも驚きである。
何にもまして特言しておかねばならぬことは、磯部がフランス人ボアソナードより早く(1879)、自らの考えとして日本法への「刑事弁護人」の導入を力説していることである。民事弁護は認める一方、「罪をおかした悪人を弁護する必要など、どこにあろうか?」というのが、当時の法律関係者たちをも支配していた観念なのである。
磯部が官界から法曹界にうつり大審院検事の職を辞し、「代言人」(弁護士)となったのが、1892(明25)年。そして18年後の1910(明43)年に、弁護人の一人として「大逆事件」に関わっていくまでの経緯については、その「大逆事件」にどのように関わったのかとともに、私にはまだまだよくわかっていませんが、少しずつ追いかけていけたらと思っています。・・・磯部が大逆事件の弁護人を引き受けた年齢よりまだ若いのですから。
〔追記〕
幸徳秋水が、公判中(12月18日)に書いた「磯部先生、花井、今村両君足下。私どもの事件のために、たくさんな御用をなげうち、貴重な時間をつぶし、連日御出廷くださるうえに、世間からは定めて乱臣賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでしょう。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。」ではじまる“陳弁書”を、リンクしておきます。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/koutoku01.html
by kaguragawa | 2010-12-23 23:23 | Trackback | Comments(3)
紀州新宮の牧師沖野岩三郎の依頼により与謝野寛の推薦で、崎久保誓一、高木顕明の弁護を引き受けた『スバル』の歌人でもあった平出修は、弁護を断った江木衷をモデルとした『畜生道』を後に書いています。
森長英三郎『日本弁護士列伝』の中の「大逆事件をめぐる弁護人」に詳しく書かれています。
大逆事件の弁護人のおおよそは、先日入手した佐木隆三氏の『小説大逆事件』で知ったのですが、出所はやはり森長英三郎『日本弁護士列伝』(1984)なのですね。年明けには『日本弁護士列伝』、読んでみたいと思っています。これからも大逆事件のことは追っていきたいと思っています。ご教示よろしくお願いいたします。
黒岩さんのブログにお邪魔するにあたり「大逆事件で生き残り冬の時代を生き延びた」堺利彦に絡めて、「氷河期の生き残り」のナキウサギと名乗りました。生息域は北海道ではなく関東です
神保町のオタさんのところへは時々「Atsuko」でお邪魔しています。
かぐら川さんのブログにめぐり逢えて嬉しく存じます。
今後ともよろしくお願い致します。