俳誌「辛夷」の《4月17日》 (欄外に)   

 普羅の衣鉢を継ごうとする者にとって――僭越ながら“あえて”私もその一人であると名宣りたいと思いますが――《4月17日》という日は、特別な日であったようです。この日、私が八尾の町に車を飛ばしていたとき、今年の二月号で通巻1000号を迎えた俳誌『辛夷』の“創刊1000号記念大会”というメモリアルな会が、開かれていたなんてまったく知りませんでした。

 前田普羅、中島杏子、福永鳴風、中坪達哉4代の主宰のもとでの俳誌1000号発行という偉業に敬意を表し、心から“おめでとうございます”とお伝えする一方で、私は普羅の句や書いたものに影響を受けつつも、俳誌『辛夷』やそれをめぐる結社の方々とはほとんど無縁であることも記しておかねばなりません。

 ・・・・・と、ここまで食前に書いたのですが、今、普羅について旧日記に以前書いたものを読み返そうとして驚くべき記録を見つけたのです。そこに自分が書いていたこと――自分が行ったこと――を、まったく忘れていたのです。今もその当時の詳細はよく思い出せないのですが、7年前、私は『辛夷』を手にしていたのです。それどころか当時の主宰福永鳴風氏に手紙まで書いていたのです。
 以下、7年前の日記をそのまま写します。

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■2003/06/20 (金) 「普羅庵」へ

・「辛夷」主宰の福永鳴風先生から、『辛夷』平成15年4月号、ご恵送いただきました。
「辛夷」は、前田普羅が富山にいたとき主宰を引き継ぎ、育てた句誌であり、普羅と交友のあった棟方志功(富山県福光町に疎開)の板画を今も表紙に飾る伝統ある句誌です。

・普羅の富山での足跡をたどりたいという思いの第一歩が、まず当時「上新川郡奥田村稲荷」にあった「普羅庵」の現在地を探すことでした。この「奥田村稲荷」が、現在の富山市弥生町だというところまでは判明したのですが、それ以上の探索をなまけ虫の私は、実行に移さずにいたのです。そのとき、地元の富山ではなく東京の俳句文学館で目についたのが句誌「辛夷」でした。文献をひっくり返しているより「辛夷」同人の方に聞けばいいのだ、といういとも簡単なことに思い到り、富山に帰るなり句誌の奥付で見た主宰の鳴風先生にお便りをさしあげたのでした。

・先生から送っていただいた2ヶ月前の4月号の「辛夷」に、辛夷同人の中坪達哉さんが「普羅庵のあとに立って」という文を書いておられたのです。俳句文学館で見た「辛夷」は5月号だったのか、6月号だったのか、何か知らせるものがあったような気がします。
その中坪氏の文中には;
『富山柳町のれきし』という富山市柳町校下の郷土史には、昭和十年頃の各町内の住宅地図が附録としてついていること、その中に普羅庵のようすが「前田普羅邸」として描かれていることなどが書かれていたのです。
鳴風先生のお便りには、「(普羅庵は)戦災後の都市計画で、あと方もなく、単なる空地です。」と。

・昭和九年刊行の『新訂普羅句集』に普羅自ら曰く;
「越中に移り来りて相対したる濃厚なる自然味と、山岳の威容とは、次第に人生観、自然観に大いなる変化を起こしつつあるを知り、居を越中に定めて現在に至る。/「都会人は大自然より都会に隠遁せる人」と思えるに、自分を目して「越中に隠遁せり」と云う都会人あり、終に首肯し能わざる所なり。」

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by kaguragawa | 2010-04-19 23:37 | 俳句 芭蕉 | Trackback | Comments(0)

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