「桜馬場の名称の由来」   

 きのう紹介した今庄ビルの前に――昨日までこのビルの名称は知らなかったので、もとの“秋吉”前と言った方が自分にとってもわかりやすいのですが――、そう言えば“柳”が一本ありました。今、そんなことを思い出したのですが、きのう立ち寄った時、柳の木はあったでしょうか?。なぜか記憶がないのです。
 枯れたのでしょうか、伐採されてしまったのでしょうか。私の思い違いであることを願いますが・・・・。(〔追記〕冬期で、落葉していて存在感がなかったのですが樹は健在のようです。でもなんとなくかつての元気がないような・・・)

 心もとない話ですが、今から思うとその柳があったあたりに、「桜馬場」の説明板があり、きのう書き写したものがあるので紹介しておきます。

 “「桜馬場の名称の由来」 
 桜馬場は、慶長十四年藩主前田利長が高岡に築城するにあたり、藩士の武術鍛錬のために馬場をつくり、桜の苗木を植えたのが、その名の由来とされている。
 明治35年(1902)市はこれを公園に指定し、同42年(1909)皇太子であった大正天皇の北陸巡遊を機に、古城公園と連絡するため定塚町まで通りまで延長し両側に桜を植えた。昭和14年(1939)にこの桜は県の天然記念物に指定されたが、戦後、増加する自動車の往来に樹勢が衰え、同30年(1955)公園を廃して残った越の彼岸桜を古城公園に移植した。”


 (注)句読点の区切りに写し間違いがあるかも知れません。なお、銘板の下に設置者名の「高岡市」と設置時が刻んであったのですが、これが平成9年9月なのか、3年3月なのか、確認できませんでした。

 この桜馬場を、藤子不二雄Aこと安孫子素雄さんは、“季節になると駅前のその通りが満開のトンネルとなる。”、と「高岡の想い出」というのエッセイで紹介していますが、その変貌が昨日紹介したエッセイ「高岡は僕の原点の街…」には次のように書かれています。

 “あの桜馬場はもうない。東京へ出て何年後か、高岡に戻った時に桜馬場は消え、のっぺらぼうなコンクリートの広い道に変っていた。あの素敵な“高岡の象徴”のような桜馬場がなくなったことは、今でも残念でたまらない。”

e0178600_10544849.jpg〔追記〕
 桜馬場通りと柳の写真がありましたので掲載しておきます(高岡市生涯学習センターのHPより)。
 シダレヤナギの左後ろに隠れているのが「今庄ビル」、右後ろが今はもうない「デリカビル(二口ビル)」。
 デリカビルの跡地〔御旅屋町1029〕は、現在空き地になっていますが、ここがもと藤子不二雄Aさんのお住まいになっていた場所です。
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by kaguragawa | 2010-02-28 10:37 | Trackback | Comments(0)

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