神田淡路町の若き子規たち
2009年 12月 07日
“余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であつたと思ふ。この時余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、殊に英語の力が足らないのであつたが、場馴れのために試験受けようぢやないかといふ同級生が沢山あつたので固より落第のつもりで戯れに受けて見た。。第一に知らない字が多いのだから考へやうもこじつけやうもない。その時或字が分らぬので困つて居ると隣の男はそれを「幇間」と教へてくれた、もつとも隣の男も英語不案内の方で二、三人隣の方から順々に伝へて来たのだ、しかしどう考へても幇間ではその文の意味がさつぱり分らぬのでこの訳は疑はしかつたけれど自分の知らぬ字だから別に仕方もないので幇間と訳して置いた。今になつて考へて見るとそれは「法官」であつたのであらう、それを口伝へに「ホーカン」といふたのが「幇間」と間違ふたので、法官と幇間の誤などは非常の大滑稽であつた。”(六月十四日の項)
〔写真は18歳頃の正岡昇(のちの子規)〕
先日(12/2)ちょっとふれた南方熊楠が河東碧梧桐に語った、共立学校時の子規の逸話、以下に写しておきます。
“不図子規居士のことになって、共立学校時代の同窓であった、といふことから、三十年前の昔話が出た。当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。尤も、書生でビールを飲むなどの贅沢を知ってをるものは少なかった。煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしてゐた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。さうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存してをるのは、清水何とかといふ男が死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕も会葬したが、何処の寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬといふので、坊主に葬式料をまけてくれと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑ふ。”(『続三千里』〔明治四十四年三月十二日の項〕)
ところで共立学校があった場所を現在の「淡路公園(千代田区神田淡路町2丁目27)としているものが多いのですが――「開成学園発祥の地」の碑がここにあるそうですが――淡路小学校のあった〔神田淡路町2丁目15〕がそこにあたるのではないでしょうか。なお、後に虚子と碧梧桐が住んだ下宿「高田屋」(明治29・30頃)は、旧地番で言うと〔神田淡路町1丁目1〕のようですが、私には特定できていません。余談ですが、虚子はそこの娘〔大畠いと〕と結婚し、碧梧桐は失恋の痛手から竹村秋竹を訪ねて北陸への旅にでます。
by kaguragawa | 2009-12-07 00:37 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(2)
坂の上の雲でも共立学校の友人からとなっています。
法官とたいこもちではえらい違い。笑えるところでした。
子規は英語が本当に苦手だったようで、大学予備門での授業はすべて英語で苦労したようで
自分の進む道も試行錯誤色々変わるのもわかりました。
子規の『墨汁一滴』のこと初めてです。
カリエスの激痛に耐えながらも毎日のように書かれたようで
このエピソードなど一瞬たりとも痛さを忘れさせてくれたのでしょうか。