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秋竹と若き日の原石鼎   

 奇しくも、生家を離れて中学生生活を送っていた原鼎(はら・かなえ/のちの石鼎)の寄宿先の主となった竹村秋竹。そのとき4年生の石鼎19歳、師の秋竹30歳(ともに数え)。同居人であると同時に、鼎の中学校の英語教師にして俳句の師となった秋竹は、石鼎にとってどのような存在だったのか。石鼎は秋竹から何を学びどのような影響をうけたのか。そこがとても気になるのです。

 秋竹は、単に子規門下の俳人というには、あまりに子規に近く、あまりに子規に遠い俳人だったのです。子規の同郷者として早くから子規や碧梧桐らに親しみ、晩年の子規にも親炙しながらも、竹村秋竹は先日紹介したように『明治俳句』の発刊によって子規の怒りをかい子規門下から遠ざかっていったのです。『明治俳句』発刊から島根県立第三中学校(←簸川中学校)赴任までの秋竹の3年間をどう考えたらいいのでしょうか。

 そうした秋竹は若き日の石鼎に俳句をどのようなものとして語り、子規や虚子、碧梧桐についてどのように語ったのでしょうか。

by kaguragawa | 2009-11-11 11:24 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

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