めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                                       野口冨士男
  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                                       堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞を読む会 」は、〔ここ〕です。
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# by kaguragawa | 2016-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

1931:旧制中学校に「我が建国の本義と国体の尊厳」   

 これは、よほどの教育史の専門家でないと知らない事実だろう、と思う。なぜなら法史学の専門研究者でも「中学校令施行規則」の改正などというところまで目を配っていないからだ。今日、偶然見つけた「中学校令施行規則中改正(昭和六年一月十日文部省令第二号)」だ。

 中学校令の改正(→第二次中学校令)にともなって制定された「中学校令施行規則」(明治三十四年三月五日文部省令第三号)が、1931年(昭和6年)に改正されたのだが(昭和六年一月十日文部省令第二号)、そこにあらたな章が追加され、今までの「第一章 学科及其ノ程度/第二章 学年教授日数及式日/第三章 編制/第四章 設備/第五章 設置及廃止/第六章 入学、在学、退学及懲戒」は、「第二章 学科及其ノ程度~」へと順に繰り下げられた。
 あらたに冒頭に加えられたのは「第一章 生徒教養ノ要旨」である。
 第一条に「小学校教育ノ基礎ニ拠リ一層高等ノ程度ニ於テ道徳教育及国民教育ヲ施シ生活上有用ナル普通ノ知能ヲ養ヒ且体育ヲ行フヲ以テ旨トシ特ニ左ノ事項ニ留意シテ其ノ生徒ヲ教養スベシ」としたうえで、その第一号に文部官僚はこう書いたのである。

 “教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ学校教育ノ全般ヨリ道徳教育ヲ行ハンコトヲ期シ常ニ生徒ヲ実践躬行ニ導キ殊ニ国民道徳ノ養成ニ意ヲ用ヒ我ガ建国ノ本義ト国体ノ尊厳ナル所以トヲ会得セシメ忠孝ノ大義ヲ明ニシ其ノ信念ヲ鞏固ナラシメンコトヲ期スベシ”

 「教育勅語の旨趣に基き」
 「学校教育の全般より道徳教育を行はんことを期し」
 「我が建国の本義と国体の尊厳なる所以とを会得せしめ」
 「忠孝の大義を明にし」

 もう一度繰り返すなら、これは1931年(昭和6年)1月になって、教育現場に直結した施行規則に――同年の新学期〔4月1日〕を実施日として――盛り込まれたものである。

 当時〔1930年代初頭〕の文部官僚が考えたこと、この法令改正を受けとめた教育の現場のありよう。こうしたことを、掘り出してみたいと考えている。それにしても私など、基本法令に手を触れず、こうした現場法規に「教育勅語」や「我が建国の本義」「国体の尊厳」「忠孝の大義」を持ち込む官僚の“ずるさ”を感じるのだが。
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# by kaguragawa | 2016-12-02 21:50 | Trackback | Comments(0)

スタバの“環水公園 冬の仲間達”   

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 金曜日の夕刻は、世界一美しい環境にあるといわれるスターバックスの富岩運河環水公園店で。

 店内には、“環水公園の冬の仲間達”!!!!
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# by kaguragawa | 2016-11-18 21:26 | Trackback | Comments(0)

鏡花、ポストの周りを廻る   

 泉鏡花が郵便物をポストに投函した後も、ちゃんと集配されるか心配でポストの周りをなんども廻っていたという有名な?エピソードがあります。つい先日、このエピソードの典拠(典拠の一つ?)を、偶然見つけましたので、以下に、その全文をここに写しておきます。八波則吉のエッセイ「此の師、此の弟子」がそれです。
 八波の書き方からしても、鏡花がここに書かれているような話をほかの場所でもしている可能性があるので、ほかの人の伝える同様のエピソードがあるのか知れませんし、鏡花自身がどこかで書いているかもしれませんが・・・。


 明治三十六年、紅葉山人が亡くなられて間もない時のことである。門人の泉鏡花氏が故郷の金沢へ帰省された。四高生の同志が氏を迎へて、一夜茶話会を催して山人の逸話を聴いた。席上、鏡花氏が語られた談話の中で、今なほ忘れ得ないものがある。
「紅葉先生は、実に文章に苦心されるお方でした。」
 と冒頭して、
「先生は、日本紙の原稿用紙に、毛筆で綺麗に書かれるのでしたが、書き損じた時は必ず丹念に張紙されたものです。時には、張った上に又張って、三重も四重も張られている個所があります。試に、そっと剥がして見ると、同じ字句の場合もあります。全く雕心鏤骨されたものである」
 と述べられた。金色夜叉中の名文を暗誦していた青年学徒は、さもこそと感激した。
 良時あつて鏡花が又言はれた。
「で、私は、先生の原稿を投函する時は、必ず二三度、ポストの周囲を見廻したものです。若しや貴重な原稿が函の外に落ちはしなかつたからうか……」
 これを聴いた自分は、此の師にしてして此の弟子ありと感じた。


 ※「此の師、此の弟子」〔『随筆 身辺雑話』(東洋図書/1936.11)より〕

 なお、文中の「良時」には「しばらく」のルビがついています。ほかのルビは省略しました。
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# by kaguragawa | 2016-11-16 22:36 | Trackback | Comments(0)

漱石と内田雄太郎(2)   

(承前)

追記〔2016.12.14〕
 昨日、『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店)を入手しました。なんと、内田雄太郎が漱石に宛てた絵はがきが、その表紙をかざっているのです。ただ、そのハガキが紹介されている本文(19p)のコメントには、内田について愛媛県尋常中学校から「郷里の富山県尋常中学校に転職」とあって、内田雄太郎が富山出身と読めるのです。果たしてそうなのでしょうか?。
 前項の(*2)に記したように、第四高等中学校の記録には「石川士族」とあるのです。「石川士族」は誤植なのでしょうか。(言うまでもまく、内田の第四高等中学校在学時、富山県は石川県から分離しています。)
 どなたかきちんとした情報を教えていただければと思います。

追記2〔2016.12.14〕
 内田雄太郎の「富山第二中学校」在任は、私の持っている「富山県立高岡中学校会員名簿」(昭和22)によれば、
 担任学科   数、物
 就任年月   明治三一、四
 転退任年月  明治三三、三
 本籍     石川
――となっており、内田が1898年4月の富山県高岡尋常中学校開校に合わせて、富山県尋常中学校から転任したことがわかる。
 彼の出身県が、「富山」でなはなく「石川」であることは、この本籍地記載からも間違いないと思われる。
 なお、この名簿では、内田雄太郎の名前の上に×印がついておりこの時点で(昭和22年12月調とのこと)亡くなっていたことがわかる。

追記3〔2016.12.15〕
 長島は岩波の『図書』(2016.11)で、富山県尋常中学校からの転任先を「富山県第二中学校」と記すが、内田の転任先は正確には「富山県高岡尋常中学校」である。「富山県第二中学校」に改名されるのは、転任1年後の1899年4月である。
 なお、同時(1899年4月)に、「富山県第三中学校」が魚津に創設され、併せて「富山県尋常中学校」は、「富山県第一中学校」に改名し、さらに2年後の1901年10月に、第一(在・富山)、第二(在・高岡)、第三(在・魚津)の中学校はそれぞれ「県立富山中学校」「県立高岡中学校」「県立魚津中学校」と改名されることになる。
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# by kaguragawa | 2016-11-14 21:32 | Trackback | Comments(0)

急ぎメモ:漱石と内田雄太郎   

 きょう岩波書店の『図書』(2016.11)をのぞいていて【内田雄太郎】の名前に出会った〔長島裕子:漱石が翻刻した英語の教科書――丸善発行のアーサー・ヘルプスの文集〕。
 内田雄太郎――どこかで見た名前だと思って、検索してみたところ、私がその名前を最初に目にしたのは、金沢泉丘高等学校の「一泉同窓会」の会報誌「一泉」であることがわかった。以前、開成中学校(開成学園)のことを調べたときにこの会報誌〔十五号/平成元年3月〕のpdfを読んで、金沢と開成学園の不思議な縁に驚いたことがあるのだ。

 その内田雄太郎が漱石に宛てたユニークなはがきが残されているという(*1)。さらに長島さんの文章によると、内田雄太郎は明治三十年以降、富山県尋常中学校、富山県第二中学校など富山県下の旧制中学校にも在職したことがあるという。内田は富山に赴任する前に松山の愛媛県尋常中学校にいたことがあるのだが、その愛媛の中学校に着任した時(1896)、五高へと離任する夏目金之助と出会っているのではないかという。

 内田は、第四高等学校の前身の金沢第四高等中学校の卒業生で(*2)、故郷の金沢第一中学校に1919年から1927年まで数学の教師として在任しているという。

 長島さんの漱石エッセイを読み進めると富山ゆかりの北星堂まで登場してきて、ちょっとうれしい気持でページをくったことでした。

(おまけに)
 ・・・金沢には漱石と縁のある人間が米山保太郎や黒本植らを筆頭に多くいる。実はきょう、第四高等学校教授の八波則吉の金沢在任中の記録がないか探していたところだったので、少しばかり驚いた次第なのである。なぜというに、あまりふれられることはないが、金沢に足跡を残した八波則吉も、漱石に縁ある人物なのである(八波は、第五高等学校時代の夏目金之助の教え子)。

(*1)『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店/2016.9) 未見

(*2)内田雄太郎は、金沢第四高等中学校の初回卒業生(本科・二部理科/明治22年7月卒業)。あのZ項で有名な木村栄と同期である。出生地など詳しいことはわからないが、卒業生名簿には、「石川/士族」とある。
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# by kaguragawa | 2016-11-11 21:52 | Trackback | Comments(0)

三島正六――牛込区原町   

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 牛込区原町二の五十二
    三 島 正 六

 おそらく住所の覚え書きとして書かれたメモのようだが、名前を〔章六〕と書いて〔正六〕と直し、訂正印?を押してある。
 誰が書いたものか?。――徳田一穂さんだ。
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# by kaguragawa | 2016-11-05 19:44 | Trackback | Comments(0)

一か月前の夕暮れ   

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ここ数日、冬の入り口のような日々。10月の夕暮れが懐かしい。いたち川の太平橋より雄山と剱。
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# by kaguragawa | 2016-11-03 19:42 | Trackback | Comments(0)

河合理右衛門、河合クニのことなど   

 富山出身の女性が東京音楽学校で瀧廉太郎の1年下に在籍したことは、6月29日の「瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)」に書きましたが、この女性《河合クニ》が、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることを今日知りました(*)。
 河合理右衛門についても、ユニークな総曲輪史誌『総曲輪懐古館』(1977)の主要な登場人物として名前は知っていますが、その生涯については私にはまったく未知の人です。

 そうした瀧廉太郎の周辺のことは、ゆっくり調べていきたいと思っています。河合理右衛門、河合クニ(田村クニ)についてご存じの方は、情報を寄せていただければ幸いです。

(*)スバル文化会(富山県内の文芸関係有志)が発行していた雑誌「スバル」(2巻5号/1934.9)掲載の「富山芸術文化史」(其の六)の「明治32年7月21日」の項に、次のように記されている。
 「富山市河合理右衛門氏次子クニ子は七月東京音楽学校専修部を卒業帰富せり。直ちに大阪清水谷高等女学校に奉職なす」
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# by kaguragawa | 2016-10-31 22:10 | Trackback | Comments(0)

きょう(10/14)の立山連峰   

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# by kaguragawa | 2016-10-14 21:27 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞――陸軍病院の「門」   

 「一九四三年、夏のある日、召集を解除されて僕は富山陸軍病院の門を出た。それはもう十三年も前のことだ。まったく昨日のことのようにしか思えないのだが。
 門を出て、背広服を着た自分を、僕は何か犯罪者のように感じた。部隊のなかで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あるいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい! と思っていた。」
(堀田善衞「魯迅の墓その他」1956.10)

 ここに書かれてあることを現地で確かめたくて、具体的には陸軍病院の「門」のあった場所に立ってみたくなり、古い地図も多少は参観し現地へ行く機会をうかがっていたのだが、いざ、連休を利用してこの地に足を運ぼうとしたら、この文章が載録されていた『堀田善衞上海日記』がどこを探しても見当たらない。「ええいっ、行こう」、資料ももたずに、駅に向かった。2日前の10月10日のことである。

 実は、富山陸軍病院の“跡地”に行くのは、初めてではない。少なくとも3度はいっているはずだ。堀田が生地・富山県の東部第48部隊に召集された後、営舎のトイレで転倒して肋骨を骨折し、陸軍病院に入院していたことは年譜上の事実であり、堀田自身がどこかで(しかも何箇所かで)書いていることだ。それ故に、今までにも何度かこの地を訪れたのだ。だが、「僕は陸軍病院の門を出た。・・・僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。」と書かれたこのエッセイを読んだ以上は、“あらためて”現地に立つしかない。――と、思い定めた。

 市内電車を終点の「大学前」で降り、かつての連隊跡地に建てられた富山大学の前を通り過ぎ、大学の角を左折し、さらに最初の交差点で右折。この道は、かつて富山連隊から陸軍病院を結んでいた田舎道だった道だ。牛ヶ首用水に架かる藤子橋を渡ったところが、もと陸軍病院の地。新しい地図で確認済みではあったものの、その跡地には今年の三月に小学校が近くから移ってきて新しく校舎が建っていた。そしてこの日は、体育の日にちなんで運動会であった。1,2年生かと思われる児童があわせて踊っているにぎやかな音楽が辺りを圧倒していたものの、基底に不思議な静けさがあった。そして私は正面にまだ紅葉していない、しめったような緑の、呉羽丘陵をながめて、小さな息をすることができた。堀田は呉羽丘陵の濃い緑を――時期は5月のはずだ――、眼に納めたはずだ。  (未了)


 註)引用文冒頭の「一九四三年」は、事実に即せば「一九四四年」である。堀田のこの“間違い”というより“思い違い”が、何に因るものなのか。別に考えてみたいものと思っている。
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# by kaguragawa | 2016-10-12 19:53 | Trackback | Comments(0)

手塚治虫最後のベートーヴェン   

 探検バクモン(NHK)。「手塚治虫最後の仕事場」

 手塚治虫が最後に聞いていたレコードの音が再生された途端、はずかしながら、涙が止まらなくなった。
 ベートーヴェンの第九の第三楽章、アダージョ。

 久しぶりに「ヒョウタンツギ」に出会えて、もう心がいっぱいになっていたのだ。
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# by kaguragawa | 2016-10-10 22:53 | Trackback | Comments(0)

公金窃盗者を目の前に見て、言わねばならぬことは   

 “人を見たら泥棒と思え”ということわざ?(格言?)があるが、今日、“議員を見たら泥棒と思え”と言っても差し支えない状況であることが、私の地元の議会で判明した。なんともやりきれない、情けない、事態ではある。
 白紙の領収書に任意の数字を書き込んだり、パソコンで領収証をでっちあげてまで、それと引き換えに公費を受け取ると言うのであれば、落ちていたものをネコババしたという“できごころ”とはまったく違う、意図的で厚顔無恥な 税金泥棒、税金遣い込みであり、議員という人々の職責を考えた場合、まったくまったく、「ぜったいありえるはずのない行為」、公職者の公金窃盗犯罪である。しかもこの人たちが、無責任に議員辞職を積み重ね、富山市議会では辞職者「12人」であるという。
 よりによって、この人たちが、議員給与の値上げを、まさにお手盛りで決めて恥じないと言うのだから、信義は地に落ちてしまい踏みつけられてしまっている。
 これは、私たちが選んだまさに私たちの“選良”たちの行為である。

 “議員”というのは、私たちの何なのか。これほどまでに私たちは、自治というものを理解もせず、まして創造もしていなかったのである。  (未了)
 
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# by kaguragawa | 2016-10-04 22:28 | Trackback | Comments(0)

飛鳥寛栗師と三島霜川・正六親子のこと   

 飛鳥寛栗(あすか・かんりつ)師が昨日亡くなられた。享年一〇二。

 15年前、縁あって『それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情』(樹心社/1999)を手にして以来、近くて遠い大先達として――師が前住職を務められた善興寺(高岡市中田)は、拙宅から車で20分余の近さ――お名前だけは存じ上げてきましたが、4年前善興寺本堂で「三島霜川を読む」という朗読会があった折に、少しお話をさせていただく機会に恵まれました。
 先月も薩摩の「隠れ念仏」のことを調べる必要があって『越中僧・薩摩開教の記憶』(桂書房/2015)を、読ませていただいて、甑島にも大魯の影響で三業派の隠れ念仏が強かったことを教えていただいたばかりである。

 私の手元には、2.5メートル余もある「三島霜川誕生の地」と書かれた大きな木碑(*)の脇に“二人の男性”が立っている写真がある。一人は、霜川の息子さんの正六さんである。もう一人が誰かわからなかったのだが、つい先日、善興寺の現住職の飛鳥寛惠さんから、「これは父・寛栗です」と教えていただいた。この写真が撮られたのは1970(昭和35)年夏とのことだから、私など霜川の跡追いをしている人間には、大きな意味を持つ写真である。
 寛栗師は、霜川の生地である中田町が高岡市に合併される前の中田町時代に、中田文化会の中心として霜川の顕彰に松田富雄氏とともに尽力され、その地が高岡市となってからも「三島霜川選集刊行会」の副会長を務められたのである。

 そして寛栗師が著された『善興寺史誌』(1964)の資料編「慶應二年惣門徒書上帳」の檀家中に「般若組 下麻生村 間兵衛」の名が見える。これは累代、「間兵衛(間平)医者」と呼ばれた三島家のことであろう。

 なんと昨年百歳で『越中僧・薩摩開教の記憶』を世に出された寛栗師は百壱歳で亡くなられた。今頃、お浄土で30年前に亡くなられた二歳年下の三島正六さんと再会されていることであろう。

〔追記〕
 *この木碑(木柱碑)は、雑誌「高志人」に水守亀之助の三島霜川回想記「三島霜川を語る」が連載されたのを機に霜川復興の気運が地元で高まり、霜川の生誕地の中田町の文化会が1956(昭和31)年8月に建てたもの。
 その後、霜川の三〇年忌法要の年〔1964(昭和39)年〕に現在の石碑に建て替えられた。この年の一連の行事は、松田富雄、飛鳥寛栗氏らを中心とした中田町文化会と三島霜川顕彰会が主催しておこなわれた。
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# by kaguragawa | 2016-10-01 21:58 | Trackback | Comments(0)

庭すみに見つけたキノコ   

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# by kaguragawa | 2016-09-17 21:27 | Trackback | Comments(0)

今朝の立山連峰――某駅にて   


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自分のある記録です
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# by kaguragawa | 2016-09-05 23:16 | Trackback | Comments(0)

『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』   

『米騒動とジャーナリズム――大正の米騒動から百年』(梧桐書院/2016.8.8))
 金澤敏子/向井嘉之/阿部不二子/瀬谷實 共著

 何より読みやすく写しとられた100年以上前の新聞記事の“数々”。これがまずこの本のいのちだろう。変体仮名を読みなれない方には明治前記の新聞は少し酷かも知れないが、ほとんどの記事が本文中に翻刻してあるので、時代の息吹をそのまま伝える当時の記事に接することができる。

 もちろん、この本は資料集ではない。が、――1978(明治11)年や1988・89(同22・23)年の「米騒動」も含め――“掘り出され・選ばれた”本書の多くの資料群の有り様は、たとえば「モラル・エコノミー」といった問題提起と相まって、著者らの事実に向き合う姿勢を強く伝えている。

 「米騒動」研究史上この本がどんな意味をもつのか、専門外の私などにはまったく分からないし、著者らは「新聞資料の収集に追われ、どこまで本来の目的である、米騒動から見たジャーナリズムの検証に近づけたかは心もとない」と語るが、1918年米騒動の100年を2年後に控えて、今後の議論のあらたな論点になりうる基本的かつ斬新な問題をいくつも提示している本ではないかと思える。何よりも、「米騒動」の真実に近づきたいと願う人に、この“労作”に掘り起こされ示された記録――それが権力者側が残したものであれ――は、貴重な事実を示してくれるであろう。

 最後に目次を転記して、内容の紹介にかえます。

  第一章 近代国家――それは米と新聞から始まった
  第二章 倫理と暴力――全国に伝播した明治期最大の米騒動
  第三章 自立を始めた新聞と民衆――明治の米騒動とは何だったのか
  第四章 民衆意識の峰――ドキュメント 大正の米騒動
  第五章 権力とジャーナリズム――治安維持法への導火線
  第六章 米騒動以後のジャーナリズム――今、何が問われているのか

 なお、4人の著者は、分担執筆ではなく“共著者”として本書の形成に関わっているようであるが、各著者が、どのような論点にどのようにかかわっているのか、そうした説明はない。

 (追記:地元のジャーナリスト/井上江花や横山源之助の立脚点・論説が高く評価されているが、それに関して言えば、やはり北陸のジャーナリスト/桐生悠々の「新愛知」1918年〔8月16日〕の論説「新聞紙の食糧攻め――起てよ全国の新聞紙!」への言及が第五章にないのは、個人的には寂しい思いがする。)
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# by kaguragawa | 2016-08-28 23:02 | Trackback | Comments(0)

読み散らかし・・・から   

 いろんなものを読み散らかした夏休みでした。

 それでも表棹影の日記「まだ見ぬ君え」を――小林弘子『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』収録文によって――再読(というか通読かつ精読)できたことは、うれしいことでした。
 余談ですが、日記中に「東都の鯨洋兄」の名を見つけて、半信半疑の思いをしました。私が知る「鯨洋」は、後に竹久夢二に関わった医師で歌人の岡田道一のことだったからです。岡田は和歌山県生まれで京都帝大医学部卒業ですから明治40年当時の「東都の鯨洋兄」に該当するのか、かなり疑問だったのですが、諸資料から岡田が一高を卒業して京大に進んだこともわかり(つまり京大生になる前の青春時代を東京で過ごしていたことがわかり)「鯨洋兄=岡田道一」の可能性が強まってきました。

 もうひとつ、驚いたのは、水守亀之助『続・わが文壇紀行』に、“堀田善衞の「二つの衝撃」(中央公論)で洩らしているように、文学者はもっと深いところを見て考えなければならぬ。”の文言をみつけたこと。
 明治・大正文学の語り部であるといってもよい水守が、戦後、堀田に言及していることにも驚いたのだが、堀田をこのように読んでいたとは(註:堀田「二つの衝撃」には「文学者はもっと深いところを見て・・・」の文言はない。)信じられないくらいの思いである。
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# by kaguragawa | 2016-08-15 22:16 | Trackback | Comments(0)

8月15日。   

8月15日。

 昨日の記事ランキング。
 
 1 佐伯安一さん
 2 三島霜川「ひとつ岩」――いわき市四倉の人々へ
 3 〔かきやま〕と〔かきもち〕
 4 [水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり
 5 上柿木畠の時空散策
 6 霜川の“水の郷”
 7 「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ
 8 渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について
 9 よりによって今日、富山の「産業革命遺産」を訪う
 10 原敬を語る服部之総

 いろいろな折に書いたなつかしい、だが未完結な、記事が並んでいる。


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# by kaguragawa | 2016-08-15 19:38 | Trackback | Comments(0)

佐伯安一さん   

 先日来、佐伯安一先生米寿記念文集『常民へのまなざし』を読んでいたところでしたので、今朝の新聞で、佐伯安一さんが亡くなられた記事に接して茫然としてしまいました。

 おそらく先生の最後の講演になったのであろう高岡の佐渡家文書についての講義を、野暮用のためお聞きする機会を失ってしまった心残りがずっと、尾を引いていました。

 佐伯安一さんと懇意にされていた方が私の周囲に何人もいらっしゃったので、先生にご紹介いただく機会が何度もあったのに、そして敢えてその機会を避けたわけでもないのに、先生には親しくお話させていただくこともかなわないままになりました。

 今後も、いやこれからこそ、遺された業績を通してお導きくださることを遠くで願いつつ、ご冥福をお祈りします。
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# by kaguragawa | 2016-08-04 22:47 | Trackback | Comments(0)