IE9ピン留め

めぐり逢うことばたち(exblog版)  

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版「めぐり逢うことばたち」       

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。

# by kaguragawa | 2012-03-31 23:55 | Trackback | Comments(11)

霜川と雨情の出逢いをさぐる(1)  

 三島霜川が晩年、金の星社から『日本精神作興・少年歴史文庫』『日本歴史実伝物語叢書』などの少年向けの一連の歴史物を出すようになったきっかけは、野口雨情のあっせんによるというのだが、そもそも霜川と雨情がいつ知り合い、どのような関係があったものか、語ってくれる文献はほとんどないようです。
 『定本野口雨情』(未来社)を全巻ていねいに紐解くと言う当然すべき作業をまだしてないのですが、野口雨情の命日1月27日にちなんで(数日遅れてしまいましたが)、霜川と雨情をめぐるおもしろいエピソードを紹介しておきたいと思います。
 雨情を語る今まで紹介されていない資料としてとても貴重かと思いますが、これをどう読むかは、霜川研究にとっても雨情研究にとっても、おもしろい論点を含んでいると思います。

 語るのは水守亀之助です。(「三島霜川を語る(二)」/『高志人』18巻2号〔1953.1〕より)

  “霜川のところへは若い人がよく出入りしていた。男世帯ではあり、気のおけないせいもあるが夫子〔=霜川〕自身が青年が好きであったからでもあろう。(中略)
 霜川のところでは初めて野口雨情にも会った。この人は多分三木露風などの関係から来ていたものと思われる。白皙瀟洒たる青年詩人であった。ある夜、霜川が声をひそめていうには「君にだけいうが、誰にもしゃべっちゃいけないよ」と念を押して、「雨情は今同志と共に山県有朋の暗殺を計画しているんだ。新聞記者となって写真機をかついで面会を遂げる。そして焦点を合わせにかかる時、機械の中にかくしたピストルを発射するというんだ。何しろ奴さんは水戸っぽだからね。」といった。どの辺までが真実か定かでないが、私はその時のことをハッキリと覚えている。
 何事も起こらずにすんだことは、老公が長寿を全うしたことでわかっている。暗殺の動機目的などについては霜川は何も語らなかった。その時分の写真機と言うのは、三脚を立て黒いホロのような布きれを被ってレンズをのぞいたりする旧式のやつだから、うまい考えだったかも知れぬ。”


 今の若い人にはわかりにくいかも知れませんが、写真師に扮するこの暗殺法、なかなか実現性の高いものだと思われますが、どうでしょうか。ただし、雨情の考案なのかどうかは疑問です。ちなみに、この「黒いホロ」、冠布というのだそうです。

 私は、霜川と雨情の出逢いは、このエピソードの時期であり、1907(明40)年の春ではないかと考えていますが、その論拠もふくめ、今までまったく語られてこなかった霜川と雨情の交流を少しでも跡付けることができればと思っています。判明したこと、少しずつ報告したいと思っています。

# by kaguragawa | 2012-01-29 17:57 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―2》   

 1922(大11)年8月の鈴木三重吉の清水良雄宛ての書簡がある。

 “暑いですね。十月号は一人でおやりになるお意気込みの由、小野君から伝承。これは大変でしょう。昨日、木内君を休養のため小田原にやりました。二三泊の上、子供たちといっしょに、全部引き上げて来る筈です。小僧のやつが、昨日、日本橋で自転車から突き落とされ怪我をして帰ってきました。木内は出たアトだし、家事の方一人でよわりました。今夜から小野先生が宿直してくれます。今日午飯は、私が茄子を煮、冷や奴豆腐を仕入れ、つけものを刻み、小野大将がメシを炊きました。この暑さでも、日曜以外は毎日乗馬です。もう、いよいよ外乗りして、歩き廻れることになりました。明朝は小野大人がワガハイの乗馬を実見に来るそうです。” 〔大正11年8月11日付け〕

 清水良雄は、鈴木三重吉が創刊した児童文学の雑誌『赤い鳥』の美術に携わった洋画家で、彼の表紙画は目にされた方も多いと思います。文中の「十月号」はもちろん『赤い鳥』の大正11年10月号のことです。そして、ここに「小野君」「小野先生」「小野大将」「小野大人(うし)」として四様に名前が挙がっているのは、誰あろう、《小野浩》氏です。
 詳細は、ここでは略しますが、小野は『赤い鳥』の中心編集スタッフだったのです。上の三重吉の書簡は「鈴木三重吉全集」からのものですが、小野の名前は全集に収められているものだけでも清水良雄宛ての書簡を中心に多くにわたっています。読めば小野が三重吉の信頼を得て、清水良雄と三重吉のパイプ役になっていることが歴然と見えてきます。

 では、小野はいつから『赤い鳥』の編集に関係するようになったのでしょうか。これについても三重吉の清水宛ての書簡が語っています。1919(大8)年のものです。

 “おはがき拝受。五月号口絵は、諸方面で大好評です。子供も喜ぶそうです(中略)七月号は第三巻第一号とし、多少、排列、装飾をかえて記念号にしたいものです。その御相談に、そのうち伺います。小野浩君、よく働き、存外、タスカリます。ともかく、それで生活する人ですから、仕事も命じやすく、大将も、どんどん片づけ、ちょっともオックーがりません。来月号から、一任するつもりです。(後略)” 〔大正8年4月14日付け〕

 正確な日付は分かりませんが、1919年の春から三重吉のもとで『赤い鳥』の手伝いを始めたこと、しかも仕事ぶりが高く評価されていることがわかります。 
 その後、“編集になれた小野君が創作をやるので円満退社”〔1921.3.1付け小宮豊隆宛て書簡〕ということがあったようですが、編集がうまくまわらず、結局、1年後に小野に復帰してもらうという経緯を経ます。最初に紹介した清水宛ての書簡は、復帰後の小野が鈴木家の家事にまで携わっている状況が書かれているわけです。(引き続き、小野は1923年8月の三重吉書簡にも登場します。)

 ところが、これほどに『赤い鳥』の編集の中心にいた小野浩が、清六氏の回想によれば、兄・賢治の童話原稿を持って訪ねたという『コドモノクニ』の発行所である「東京社」にいたことになっています(前回紹介の宮沢清六「兄のトランク」参照)。
 ――が、どう考えても、1932年当時、小野浩が三重吉の片腕として『赤い鳥』の編集をしながら、ライバル社の東京社にも在籍したとは思えないのです。


 ・・・この事態をどのように考えたらよいのでしょうか。賢治研究の側から、この点に疑問が呈されたことはないようですが。

 *写真は『赤い鳥』創刊号の清水良雄の表紙画


# by kaguragawa | 2012-01-29 15:16 | Trackback | Comments(0)

譲吉の新竪町、堤町住居はいずこ  

 高峰譲吉の高岡(富山県)・金沢(石川県)での足跡を追うのも私の古いテーマなのですが、オリジナルな資料を探すなどと言うことは現在の私には困難になってしまいました。

例えば、――先日、古書店で見つけた『高峰博士の面影』(1961)を引用すれば――

“博士は生誕の翌年安政二年(陰暦の九月二十八日)、高岡の父祖の家から母につれられ金沢の父のもとに移ってきた。
 高峰一家は安政の頃金沢新竪町に、文久の頃堤町に、ついで石屋小路に移り、明治五年にはお城に近い梅本町に住んだ。”


・・・といわれる辺りのことを、その具体的場所もふくめて探りたいのですが。

 こういう中間的情報でもこうやって「掲示板」的に、書き込んでおけば、どなたかの役に立ち、どなたかからの新情報も得られるのではないか、と思っている次第です・・・。


# by kaguragawa | 2012-01-25 22:06 | Trackback | Comments(2)

《土岐僙》の生年〔1860年〕のこと  

 H先輩へ
 先日書いた《土岐僙》の生歿年のことで、私の試論である【生年=1960年】について一言しておきたいと思います。

 この西暦年〔1860年〕は、土岐家の由緒書に拠って“算出した”年です。仔細は次のとおりです。
【1】
 加賀前田藩では明治維新の折、藩士に対して「先祖由緒一類附帳」を提出させました。土岐家のものは、金沢市立玉川図書館近世史料館の「加越能文庫」に下記の3通残されています。
 《》土岐僙の父〔土岐無筆〕が書いたもの(題:由緒一類附/明治2年10月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐文左衛門】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治2年9月付け)、
 《》〔土岐僙〕が【土岐僙】の名で書いたもの(題:先祖由緒一類附/明治3年11月付け)の3通です。
 B→A→Cの順で藩に提出されたようですが、なぜ類似のものが3通あるのかよくわかりません。(私なりの推測は割愛します。)はっきりしているのは、明治2年9月に、無筆が隠居し家督が嫡子文左衛門(僙)に相続されていることです。
 この土岐僙本人が書いた《B》に、「本国美濃 御国出生 拾歳」、《C》に、「本国美濃 加賀金沢出生 年十一」と、自らのことが書かれているのです。つまり、明治2年〔1869〕は10歳、明治3年〔1870〕は11歳であるとの僙自身の申告にもとづいて逆算し、1歳に該当する1860年を出生の年としたというのが、【生年=1960年】の出所なのです。
 いうまでもなく、当時の年齢表記は《数え》ですから、〔1歳=生まれた年〕なわけです。

【2】
 残念なことに話は、上の【1】に尽きていません。“1860年って、江戸時代の末のようですが、元号でいうといつにあたるのですか?”、との問いが聞こえてきます。実は、私も知りたいのです。が、残念ながら特定できないのです。
 歴史年表を開いてご覧になればおわかりのように、この1860年に該当する年は、年の途中で改元がおこなわれています。この年は、当時の暦(太陽太陰暦の「天保暦」)上での三月十八日から、「万延元年」に変わります。つまり、年初から三月十七日までは【安政七年】、三月十八日から年末までは【万延元年】というわけです。(当年三月三日の「桜田門外の変」が、改元の一理由)
 彼の具体的な出生の日付がわからないので、彼が【安政七年】の生まれなのか、【万延元年】の生まれなのかは、現在の資料からは(少なくとも私が確認できた資料からは)、確定できず、表記できないのです。生まれた日付がわかれば、例えば、安政七年(1860年)一月二十四日生まれとか、万延元年(1860年)四月一日とか書けるのですが・・・。

【3】
 さらに残念なことに話は、上の【1】と【2】に尽きていません。彼、僙さんが大晦日の万延元年十二月三十日に生まれたとしましょう。彼は西暦何年に生まれたことになるのでしょうか。結論だけいうと、1861年の生まれとなってしまいます。もし彼が万延元年十一月二十一日以降十二月三十日までの間に生まれたとすれば、彼は〔1861年生まれ〕となるのです。太陽太陰暦とグレゴリウス暦の間に、平均で、約1か月弱ほどのずれ――グレゴリウス暦が平均で約〔29.53日〕ほど先行――があるためです。
 何回も「土岐僙は、1860年の生まれ」、と上に書いてきましたが、これは厳密な物言いではなかったのです。
 土岐僙さんが生まれたのは、――資料で確認できる限りでは――〔安政七年一月一日から万延元年十二月三十日の間〕、しいて西暦で言えば〔1860年1月23日から1861年1月29日までの間〕となるのです。(なおこの年は、三月と四月の間に閏三月というおまけ月?がはいる〔1年=13か月〕の調整年だったことも付言しておきます。)

 どこかに土岐僙の戸籍関係の資料とか、本人の書いた履歴書とかの資料があると思うのですが、そうした新資料に出会えることを願って、・・・このあたりで、幕とします。

 追記
 H先輩。これと同じような愚考を繰り返しながら《三島霜川の年譜》をこしらえていますが、一向に進んでいません・・・。ゆっくり、あわてずの構えですが、またご協力ご支援ください。

# by kaguragawa | 2012-01-24 22:02 | Trackback | Comments(0)

ちょっと独り言  

 ルソーの音楽作品について書いたおかげで?、9年ほど前の賢治に関する文章まで引っぱりだしてしまい、少しく後悔しています。しかしどうしても賢治と小野浩の交点について、ひと言いっておくべきと思うことがあったのです。
 それにしても霜川を追いかけるなかでようやく見えてきた維新以来の「明治」という時代が、「大正」に変るあたりから私には、かつて親しんだ賢治の時代として決してなじみのない時代ではないにもかかわらず、その全体像も細部も、混沌として見え難いものになってきます。

 この時代の見えにくさ、否応なく新たな選択を迫られている現在となにか、――1911年・2011年の100年という時代差を交えかつ飛び越えて、――符合しあっているようにも思えてきます。

 私は、まだまだ明治という時代にとどまって見据えたいものがあるのですが、あらためて賢治や夢二の時代にも、そして目の前の時代にも、手探りで、そう言う意味では、確かな手ざわりを大事にしながら冒険ごころをもって臨んでいきたいと思っています。年齢相応の足許の覚束なさを自覚しつつですが・・・。

# by kaguragawa | 2012-01-22 23:40 | Trackback | Comments(0)

《小野浩のこと―1》  

 前項で紹介した9年前の《ルソーとラモー》を書いたのが、2003年の10月24日だったのですが、その前日〔23日〕に《小野浩と宮沢賢治》というタイトルの文章を書いていました。
 読み直してみたら、少しつけ加えたいこともでてきたのと、ほんとに偶然なのですがこの項に関するある文献を入手したので、あらためて《小野浩のこと》というタイトルで整理してみたいと思います。(なお次稿は、1/29の予定)

 まず、2003年10月24日の稿《小野浩と宮沢賢治》と、2004年1月4日の稿《1月4日の賢治》との2つの〔旧稿〕を紹介しておきます。

●「小野浩と宮沢賢治」 (10/23/2003)

 宮沢賢治とほとんど同時代に生きた、しかも同じ年に亡くなった童話作家がいます。小野浩です。
 生没年を併記してみるとそのことがよくわかります。
 2歳違いのこの二人は、日本が戦時体制に入っていこうとする矢先、1933(昭8)年に、宮沢賢治は27歳で、小野浩は29歳で、亡くなっています。賢治がちょうど1か月さきでした。あまりにも奇妙に重なり合った人生です。

  *宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  *小野 浩  1894.06.29~1933.10.21

 賢治はご承知のように東北岩手県の生まれですが、一方、小野は九州鹿児島の生まれです。
 じゃ、“この二人に何か接点があったのか”、と問われるならば、何もなかったとお答えするしかありません。では、同時代人だったこと以外に、まったく関係がなかったのかと、問い直されると、「不思議なすれ違いがあったようです。」という答になりそうです。

 そんな話の続きは、来年の1月4日(?)に、もう少し具体的なことがわかっていれば、あらためて報告させていただきたいと思います。

 とりあえず、命日から少し経ってしまいましたが、今日は小野浩の簡単な略歴だけ、紹介させていただきたいと思います。

 「小野 浩」
 明治27〔1894〕.6.29~昭和8〔1933〕.10.21/鹿児島県加茂郡竹原町生まれ。
 早稲田大学英文科を大正6年に卒業。
 「赤い鳥」社に入社、10年以上「赤い鳥」の編集に携わり、また同誌上に「鰐」「かばんをおっかける話」「金のくびかざり」などを発表。
主著に童話集「森の初雪」がある。
 その他「新青年」にブラックウッドの「意外つゞき」などを翻訳した。
 (『新訂作家・小説家人名事典』(日外アソシエーツ/2002.10)ほかより)

 〔追記〕
 小野浩の生誕地を、上に「鹿児島県」と書きましたが、地図で確認しようとしたらば、鹿児島県には加茂郡竹原町はありませんでした。
 これは今年3月ごろの図書館で書き写した手書きメモによって書いたのですが、これは私の書き写しミスのようです。間の抜けた話ですみません。鹿児島県ではなく、「広島県」のようです。ただし、加茂郡竹原町は、現在、「竹原市」になっているようです。そういったことも含めて、あらためて確認しますが、とりあえず、上の記述はそのままにしておきます。

●「1月4日の賢治」  (01/04/2004) 

 妹トシを前年の11月に亡くした賢治は、年が明けるとまた思い立ったように上京し、当時本郷にいた弟清六の下宿を訪れます。
 1923(大12)年1月4日のこととされています。
 童話原稿がつまったトランクを清六の前に差し出し、どこかで発表してもらうように交渉してくれと頼むのです。この時、賢治27歳、清六は18歳です。
 清六はその原稿を、なんと「婦人画報」に持ち込むのです。応対した編集者は、数日後に「これは私の方に向きませんので」と返し、再び東京に立ち寄った賢治はそのトランクを持ってまた雪の花巻に帰っていきます。
 このとき応対した「婦人画報」の編集担当というのが、“小野浩”です。

 当時、清六がどこに下宿していたのか、そして清六が原稿の入ったトランクを下げて訪れた「婦人画報」がどこにあったのか、知りたくて、この話をフォローしてみたのです。が、なにかこの話には無理があるような気がしてならないのです。
 (肝心なこの疑点の内容、公開できるほどのものでもないので、今は指摘するだけにさせてもらって、もう少し調べて後日、あらためて、その機会を持ちたいと思っています。悪しからず。)

 ※ 小野浩の生地は、やはり広島県でした。10/23日記に私の資料写し誤りかと書きましたが、いくつかの辞典類にはやはり「鹿児島県」と誤植?されています。
 ※ ちなみに今年〔2004年〕の4月1日は、宮沢清六さんの生誕100年にあたります。
 

(資料1)
 ……大正十二年の正月に、兄はその大きなトランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現れた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さしてみろやじゃ」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んでみて下さい」と言って帰ったのだった。
 あの「風の又三郎」や「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 「これは私の方に向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
(『兄のトランク』(宮澤清六/筑摩書房/1987.9〔初出1941『創元』3月号〕)

(資料2)
 一月四日 上京。例のトランクいっぱいの原稿も持っていき、弟清六が本郷区竜岡町に学業で滞在中だったから東京堂の婦人画報編集部へもってゆくよういいつけた。その夜きょうだいふたりでレストランへ出かけて会食。何でもいいから見はからってもってこいといったら大皿にさざえの壺やきがきて「これはとられるかな」と笑った。賢治はそれよりトシの分骨を国柱会の妙宗大霊廟に納める手続をとるため静岡県三保にあった国柱会本部まで行った。清六は東京堂婦人画報編集部小野浩にあい原稿を見てもらうことにした。この中には「楢ノ木大学士の野宿」などが入っていたのであるが結果は雑誌に向きませんからと断わられた。やがて賢治がそれを持って十一日帰る。小野浩は、のちに『赤い鳥』の編集者となり、一九二七(昭和二)年六月号(第十八巻六号)の『赤い鳥』に「お人形と写真」という童話などを発表している。なお分骨は春、父と妹シゲが三保へ納める。
(『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史/中公文庫/1991.1)


# by kaguragawa | 2012-01-22 19:37 | Trackback | Comments(0)

ルソーの「ヴィヴァルディの春」  

 Rousseau: Le Printemps de Vivaldi
        arrangé pour une Flûte sans accompagnement (1775) in D Major


 先日の《ルソー:2つのクラリネットのための4つのエール》に続いて、《ルソー:ヴィヴァルディの春》のCD(*)が届きました。偶然、3日前最初に見つけたCDをさっそくamazonで購入したもの。
 この曲もずっと気になっていたのですが、聞くのは初めて。
(今あらため検索してみたら、この曲はけっこうフルート奏者のCDに入っていますね。)

 *ヴィヴァルディ:フルート・ソナタ全集〔Vivaldi: Complete Flute Sonatas / Mario Folena〕
  
 が、このルソー編曲の曲を聴く前に、このCDに収まっているヴィヴァルディのオリジナルのソナタに、ほとほと参ってしまいました。実はある時期からヴィヴァルディはまったく聴かなくなってしまっていて、早い話が、あるきっかけでヴィヴァルディがきらいになってしまって、顔を見るのも曲の第1音を聞くのさえいやになってしまっていたのです。
 ルソーのおかげで素敵なヴィヴァルディが聴けたのですから一曲両得?。

 それにしても、ルソーはどういう思いでヴィヴァルディの室内楽用の曲――あの有名な「四季」の《春》である――をソロのフルート(トラヴェルソ)向けに書きなおしたのだろうか。私にとっては新鮮で感動的なヴィヴァルディのオリジナルのフルートソロを聴きながら、イタリア音楽とフランス音楽の優劣が争われた「ブッフォン論争」のことなど思い出して、いろんな想いが湧いてきました。

 以下、9年前に書いたもの。

 「ルソーと音楽」というテーマを論じようとすれば避けて通れないのが、敵対する“ルソーとラモー”という問題です。
 1753年という“音楽家ルソー”にとって一つの頂点でもあった年、ルソーの幕間劇「村の占い師」がパリのオペラ座で上演され(前年にフォンテンブロー宮で御前演奏され、ルイ15世やマリー・アントワネットにも愛唱されていました)、さらにイタリア音楽とフランス音楽の優劣を国論を二分して争われた「ブッフォン論争」が巻き起こった年でもありました。
 この論争の火付け役?でもあったルソーは、イタリア音楽派のリーダーとして論陣を張る一方、ラモー音楽理論への批判を精力的に書いています。
 (ここまで書くと、そのラモーとはいったいどんな人物だったのかということを書かねばならなくなるのですが、当代のフランスを代表する音楽家であったという辞書的な説明しか、今の私にはできません。)

 この「ラモー対ルソー」の因縁的とも言える対決も、出発点はルソーの音楽修行時代のラモー和声論の独習から始まっているように思われます。
 どう公平に見ても音楽の天才的な才能に恵まれていたとは言えないルソーでしたが、ヴァランス夫人のもとでひとたび音楽にとらわれて以来、情熱的ともいえる打ち込み方で音楽を自分のものとしていきます。
 その時ルソーが私淑したのが、宮廷音楽家の出ではなく、しかもデカルトの哲学を踏まえた音楽理論家でもあったラモーでした。難解なラモー理論を、ルソーは必死に吸収しようと努力を重ねています。

 そのラモーの3作目のオペラ「カストルとポリュクス(Castor et Pollux)」が初演されたのは、いまから266年前の今日、1737年の10月24日でした。
この年、ラモーは1722年の『和声論』に次いで、『和声構成論』も出版していますし、ルソーはラモーに学びつつ、初めて自作のシャンソンを『メルキュール・ド・フランス』に発表しています。
 この時期こそが、お互いまだ顔を知らないラモーとルソーの出逢いの時期でもあり、音楽家ルソーの誕生のときでもあったのです。

 *最近、久しく眠っていたラモーのオペラの上演がさかんで、CDでも聴けるようなりました。ただしほとんどが長大なものなので、1時間弱のオペラ「ピグマリオン(Pygmalion)」が、おすすめです。
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# by kaguragawa | 2012-01-21 23:59 | Trackback | Comments(0)

土岐僙のこと  

 このブログに、〔土岐僙〕のことを何回か書いていますが、決定的なことがまだまだ不明で続稿を書いてないのですが、近いうちに中間報告をしたいと思っています。

 とりあえず、生歿年のみ――ほぼ間違いないと思われるものです――報告しておきます。

 *土岐 僙 1860~1935

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# by kaguragawa | 2012-01-21 19:38 | Trackback | Comments(0)

ルソーの「2つのクラリネットのための4つのエール」  

 ジャン=ジャック・ルソー。――彼は天成の思想家であった。が、天成の音楽家ではなかった。

 が、しかし、彼はみずからの音楽の才には満足していたのではなかろうか。
 そういう意味では、ルソーはモーツァルト同様、天真爛漫な音楽家であったといえるのではないか。
 ルソー「2つのクラリネットのための4つのエール」4 airs pour 2 clarinettes〕を聴きながら、そんなことを思いました。

 今年はルソー生誕200年の記念すべき年である。ちょっと大げさだが、2012年までは生き永らえたい、と思い続けたその2012年である。なぜならば、ルソーの記念年になれば、ルソーの音楽作品がわんさと演奏され、わんさとルソー作品のCDが世に出回るのではないか・・・そんな妄想?をいだいて指折り数えてきたのである。
 (なぜそこまでルソーなのか、ルソーの音楽なのか、については簡単に書けないが、下の「ルソー」のタグをたどってもらえれば、いくつかルソーについて書いたものがあります。)

 よく考えたら、私にはCDの新譜情報をチェックする方法も知らなければ、そういう余裕もないのである。しかし、先日、何気なく検索してみたらば、幕間劇『村の占い師』の未聴のCDなどがあり、何枚か註文した次第。

 きょう聴いたのはミシェル・ポルタルとポール・メイエの演奏。二人のこの演奏には私も満足でしたが、ルソーも満足するのではないでしょうか。

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# by kaguragawa | 2012-01-19 22:37 | Trackback | Comments(0)

思いを通わせる、ということ  

 阪神淡路大震災から17年。

 めずらしく早く帰宅して見たニュースからは、朝5時46分の追悼だけではなく、午後2時46分にも東日本大震災の犠牲者に黙祷を捧げる催しが神戸で行なわれたことが報じられている。
 “思いを通わせる。”そういう心の尊さに、思わず涙がうかんだ。

 スピーディかスローモーかその名は覚えたくないが文明の利器が紡ぎだした情報は、「意図的に」抹殺扱いされ、防げた被曝がまた浪江町や南相馬市の避難された方々に及んだ。
 「通わされたあたたかな思い」は、あの大事の折にも、今も、行政に必要とされてないようだ。

 北国の人間として、災害地の「寒」に思いを通わせ、ふと心にうかんだ良寛師のことばをお送りしたいと思います。

  “天寒し 自愛せよ”

# by kaguragawa | 2012-01-17 19:59 | Trackback | Comments(2)

坪内祐三『探訪記者 松崎天民』から  

 なにかの偶然ですが、今机の上に、“オレンジ色の”装丁の単行本が2冊あります。

 一冊は、長久保片雲『野口雨情の生涯』、一冊は坪内祐三『探訪記者 松崎天民』です。長久保さんの『雨情』は、30年ほど前の古い本ですが、北海道での雨情と啄木の出逢いのいきさつを確認しようと引っ張り出してきた本です。一方、坪内さんの松崎天民は昨年末に公刊されたばかりの新刊です。 

 ・・・と、それぞれのオレンジ本のかんたんな紹介から始めて、啄木と天民のことなども書くつもりだったのですが、突然時間がなくなったので、今日読んで多くの刺激をもらった『松崎天民』から、次の部分だけ、書き写しておきます。
(坪内さんが引用している天民の『東京の女』(明治43〔1910〕年)から「菅野須賀子女史訪問記」とのサブタイトルをもつ「社会主義の女」の一部です。)

 〈新宿停車場から二丁足らず、橋の通りを左へ曲がると間もなく、左側に「平民社」とした黒塀の一構え。未見の幸徳秋水、菅野須賀子の両氏は、ここに病躯を横たえながら、無政府共産主義のために奮闘している〉

 大逆事件の始まる少し前に発行されたこの『東京の女』は、大逆事件後も(1915)、この「菅野須賀子女史訪問記」を削除せずに、再版されていると言うからちょっと驚きなのですが、そんなことより、昨年秋その跡地を訪ねた「新宿(千駄ヶ谷)平民社」が、――千駄ヶ谷平民社は写真でも見たことが無いのですが――天民の筆からその黒塀とともに眼前にいきいきと浮かんできたのには、慌てたことでした。

 『探訪記者 松崎天民』については、あらためて、書きたいと思っています。

# by kaguragawa | 2012-01-15 19:53 | Trackback | Comments(0)

冬の立山~天門橋 :富岩運河環水公園  

# by kaguragawa | 2012-01-12 22:58 | Trackback | Comments(3)

霜川の「岩見沢」、啄木の「岩見沢」「釧路」・・・  

 前項で少しふれた三島霜川の「ドブ」。これは「新小説」〔1908(明41)1月号〕に発表された小説ですが、この作品の舞台は北海道です。(霜川は、北海道を訪れたことがあるのでは?・・・、と思っています。今、調べる余裕がありませんが。)

 “××というところは、札幌からちょっと十里ばかり、山に近い平原であって、戸数も五百戸近くある。この地方ではかなりの町で、わずかの農産物の他にはこれという産物もないが、札幌、旭川、室蘭、幾春別の方面からやってくる、四線連絡の中心となっている故か、新開の町としては賑やかな方で、汽車の貨物も相応に集散するし、大きな鉄工場もあれば、木工場もあり、その職工や人夫や駅夫が、方々から集まって来て、いわゆる渡り者の多い町であった。”

 なぜ霜川があえて「××」と伏字にしたものかわかりませんが、これは「岩見沢」であることはこの具体的な説明から明らかです。主人公の〔幸次〕は、足尾銅山などを放浪の後岩見沢にたどりつき駅で人夫として働いているのです。
 ところで、今までこの北海道の作品にあまり興味をもっていなかったのに、今回場所探しまでしたのは、つい先日、明治期の北海道の鉄道を調べたばかりだったからです。通称「釧路鉄道」、「安田鉄道」というのが正しいようですが、安田善次郎がかかわった北海道の硫黄鉱山のことを調べていて、北海道の2番目?というこの鉄道のことを知ったのです。
 このことは、「釧路集治監」の囚人労働を抜きにしては語れないので、項をあらためようと思います。

 それよりも、〔明治41年1月〕・〔岩見沢駅〕の二つの時空が交わるところに石川啄木がいること。そして、その先に啄木の釧路があること。安田善次郎の20年後の釧路です。
 そんな無関係ながらも不思議に結び合っていることどもについても、いずれ整理して書いて見たいと。。。


                                        *明治30年頃の岩見沢駅

# by kaguragawa | 2012-01-12 20:14 | Trackback | Comments(0)

霜川の「虚無」を久しぶりに読む  

 三島霜川「虚無」。この作品に、社会主義的な観点が含まれていることは漠然とした記憶にあったのですが、この作品を読み返すことなく長い時間がたってしまい――ここ数年霜川の事績を集中的に追っかけていたときも、この作品は再読しないままでした――、そんなことも忘れてしまっていました。
 が、先年大逆事件100年をきっかけに、当時の初期社会主義のことを少し勉強したおかげでしょうか、今日、読み返してみて、この1903(明治40)年に書かた作品「虚無」に込められた思想は、当時の思想状況においてもかなり特異なもの、誤解をおそれずに言えばかなり進んだもの、大正期の思潮を先取りしているもの、と解すべきではないのかと思い至りました。

 この作品のタイトル「虚無」を、当時“社会主義”と同語であった“虚無主義(虚無思想)”の「虚無」と読むべきだと言っているのではないのですが、ある疲弊した村の――“高谷といえばこの国では知らぬ者の無いくらい名高い家柄”の旧家当主〔達男〕も、そしてそのもとを訪ねた7年前に離婚し東京で暮らす元妻の新しい女〔蓮子〕も、当時の社会主義に通じる思想状況のなかで〔不条理なもの〕を告発しつつ、それぞれに苦悩している存在なのです。

 法律や道徳によって守られている所有権(私有財産)も、略奪によるものであることを、名家の主・高谷達男の口から語らせる一方で霜川は、旧式仏教の堕落を“そこに信仰の光は消えてしまっている。”とし、続けて“低級の教育者は、声をからしながら修身を説いているが、生徒は欠伸をしたり墨の塗りっこをしてして、教育の熱誠とは没交渉だ。で、帰途には、他人の菜園のリンゴを盗む。そしてその教育者は互いに暗闘したり陥穽したりして、またひとの妻を盗む。どのような者にしても何かの手段で何かを盗む。ある者は税を盗んでいる。ある者は女を盗み、村会議員などという政治家達はある権力と仕事を盗み、または強奪しておる。そして役場の吏員は、脱税者または税の滞納者の処分に苦しみながらも時間と給料を盗んでいる。でお互いにお互いの心を照らして、お互いの心を良く知っているから、絶えず不安の眼を光らせてひとを見る。して、公徳上の約束は全く破棄されてしまって、お互いに自己の権利と安寧とを犯されぬようにつとめて精根をからしている。もちろん国家は法律の条文によって、この土地の安寧を擁護し、また擁護されているように見えるが、しかしそれは表面だけのことだ。”――と詳細に語らせています。

 また霜川が「虚無」の直後に書いた「ドブ」という作品で、落ちぶれた労働者の死に際に「俺の敵(かたき)は人間だい。てめえも敗けるなよ。」と絶え絶えな声で気丈に言わせていることも今、思い出されます。

  こうした思想を、霜川は創作作品において深化させることなく、歌舞伎を中心とした演劇評論にその活動の場を移してしまいました。そのことを批評めいてとかく言うことは私の役目ではないのですが、もう少し本格的な創作の場で踏みとどまってほしかった、との思いを霜川の理解者であった水守亀之助と共有せざるをえません。
 
 この「虚無」が、底流において10年前の出世作品である「埋れ井戸」に繋がっていることも気づいたことなのですが、そうしたことは〔霜川/不条理なものへの根源的問い〕のテーマで、別の機会に。

         *右上は40代後半(推定)の三島霜川

# by kaguragawa | 2012-01-07 19:28 | Trackback | Comments(0)

北陸タイムスの高橋秀臣  

 あの高橋秀臣が、――といっても説明が必要ですが、割愛――「北陸タイムス」創立当時の社長兼主筆として〔1908.11~1910.11〕、富山にいたことがあるのですね。

 そう言えば、このことは前にどこかで読んでいたはずと思うのですが当時は、高橋秀臣のことなどまったく眼中にも、もちろん頭中にも、なかったのですから、まったく記憶に残っていないのです。

 足尾鉱毒事件に関わった人物が、身近に?いたのですね。

 今日も、私の備忘録です。悪しからず。

〔追記:1/11〕
 それにしてもどういう縁で彼は富山に呼ばれてきたのか?。そこが知りたいところです。稲垣示がかかわっているのでしょうか?。

# by kaguragawa | 2012-01-05 22:48 | Trackback | Comments(0)

東京の馬場邸の主の名が・・・  

 今朝の北日本新聞は、一面のトップに「旧馬場邸富山移築を」との見出しで、東京新宿区にある今使われていないある公邸を富山に移築する計画を報じています。
 “旧制富山高校(現・富山大学)の創立に尽力した馬場はるが昭和初期に長男の住居として東京都新宿区に建設し、戦後は最高裁判所長官公邸として利用されていた和風邸宅を県内に移築する計画が浮上している。” 
 日本近代建築の代表作の一つといわれている新宿区にあるこの「旧馬場邸」――新聞に所在地は伏せてありますが、神楽坂脇の若宮町で、東京へ行くたびにいろんな建築物を見て歩いている私もまだ足を運んでいないものなのですが、――について今ここで書こうというのでもなければ、日本海交易に活躍した北前船五大船主といわれた廻船問屋の馬場家のことや、馬場家とこの建物を設計した吉田鉄郎の知られざる?関係を書こうというのでもありません。
 この旧馬場邸移築の新聞記事には省略されたある人の名が朝から気になってしかたがないので、そのことを書いておきたいのです。

 上に引用した記事中に登場する“馬場はるの長男”。この方の名前がなぜか新聞には書かれていませんが、馬場正治氏です。それがなんと、この方の名前を一昨日、あるところで見たばかりなのです!。しかも堀田呉吉と並んで彫り込まれている馬場正治さんの名前を・・・。
 この正治さんの生没年など確認しようと思っていた矢先に、正治さんの元住居のことが地元紙のトップに出ていたので驚いたのです。
 堀田呉吉さんと馬場正治さんの名前を見たのは、きのう紹介した稲垣示翁之碑の左下脇にある多くの寄進者名を記した碑の中なのです。私がなぜ興奮気味にこの二人の名前を繰り返し書いているのかを説明しようとすると、面白くもない話を延々としなければならないので割愛するしかないのですが、明治大正期の富山人のネットワークが見えてくるからなのです。
 そんなことも、追い追い、書いていきたいと思っています。


〔追記〕
 あまりにも説明不足なので、《堀田呉吉》の名が登場する旧日記〔2007.8.14〕を一部引用しておきます。堀田呉吉というのは作家・堀田善衞氏の曽祖父なのである。

『堀田善衞集――戦後文学エッセイ集11』(影書房/2007.4)
 この『堀田善衞集』中の「二葉亭四迷氏と堀田善右衞門氏」というエッセイに関わることがらについて、忘れないうちにメモ書きをしておきたいと思います。
 それは、二葉亭四迷が使っていた住所録に「堀田善右衞 同呉吉」という名前が出ていることについての照会に、堀田善衞氏が答えるところから始まっています。

 “この堀田善右衞という名は、徳川時代から北陸は伏木港で北前船による廻船問屋業を営んでいた、私の家の家長が代々継いで来た名前であった。廻船問屋としては、鶴屋という商号も持っていたから、鶴屋善右衞門と呼ばれたり、書かれたりしたこともあった。(中略)そうして、二葉亭四迷の知人住所録に、呉吉とあるのは、私の曽祖父の本名であった。”
 “けれども、私に言えることは、実は以上、これだけなのであって、これ以上のことも、これ以外のことも、何も言うことができないのである。ましてや、二葉亭四迷の住所録にどうしてわが祖先の名が出て来ているものか、とは、推理することもほとんど不可能である。”

 ふむふむと読んできて、びっくりしたのが、次に《稲垣篤》の名前を、やはり、二葉亭四迷の住所録から堀田善衞氏が出してこられたからである。


# by kaguragawa | 2012-01-04 23:11 | Trackback | Comments(2)

稲垣示翁之碑  

 稲垣示は、私が今住んでいる射水の地(富山県射水市)が生んだ明治の政治家。
 稲垣は自由党員で、田中正造とは所属党を異にしましたが、足尾鉱毒事件では積極的に反対行動に関わっています。
 今日、久しぶりにこの稲垣示の生誕地に建てられた碑を訪れました(射水市棚田)。

 6年前の旧「めぐり逢うことばたち」に《稲垣示の遭難》という題で、次のように書いていました。

 「板垣死すとも自由は死せず。」  ・・・この有名なフレーズによって記憶されている板垣退助の受難〔1882.4.6〕の報せに駆けつけた我が富山の――といっても当時現在の富山県の全体が石川県の一部でした。富山県が誕生するのはこの事件の翌年!――有志がいました。 稲垣示(いながき・しめす)です。
この事件の2年前、板垣の愛国社第4回大会〔大阪市北野太融寺。この大会により国会期成同盟となる〕に北陸の地から参加した稲垣示は、以後北陸の自由民権運動の先駆となるだけでなくむしろ中央でも運動の牽引役として活動を展開していきます。

その彼が今度は受難者の側になったのが今から109年前の今日〔1897.4.25〕のことでした。骨膜に達する創傷を5個所も頭に負ったにもかかわらず凶刃を持つ暴漢を追い詰めたと当時の新聞等には報じられています。

彼が襲われた原因は何だったのでしょう。この1987(明治30)年とはどういう年だったのでしょうか。そもそも稲垣示とはどのような人だったのでしょう。
(とりあえず、この受難事件が足尾鉱毒事件に関わるものだと言うことだけお伝えしておきたいと思います。)

〔追記〕
*稲垣示 嘉永二年八月二十日(1849.10.6)~1902〔明35〕.08.09
彼の長男・篤の生は、ほとんど三島霜川と重なるものである。
*稲垣 篤  1877.11.15~1933.02.06
*三島霜川 1876.07.30~1934.03.07

なお、稲垣家と三島家は、直線距離にして4キロ余である。
    〔2006.4.26〕



〔追記:2011.01.02〕
 上記の6年前の稲垣示の記事に、三島霜川が登場していて我ながら驚いたのですが、地縁と言う関連だけで稲垣家と三島家をならべるという的外れな所業は、当時の思いつきははともかくとして、三島霜川の父・重法の政治への志向を考えるとき別の意味を持っていると思えてきます。このことは、最近ようやくわかってきたことで、あらためて書こうと考えています。

# by kaguragawa | 2012-01-02 15:43 | Trackback | Comments(0)

初春  

 雪のないお正月となりました。

 大晦日の昨晩は星空でした。

 今年はどんな年になるのでしょう。あらたなめぐり逢いを想い、どきどきしています。
 本年もよろしくお願いいたします。

〔追記〕 今年の計画は?との問いに
     (「継続審議」ものですが、自分の目標として書いておきます。)

 三島霜川の歿後80年(2014)の3月を目途に、「霜川年譜(私案)」と私撰「霜川作品集」を完成させること。

 ということで、今年も?、――かっこよく言うと――文化のクロノトポス(時・空)の博捜探索に歩き回りたいと思っています。

# by kaguragawa | 2012-01-01 08:18 | Trackback | Comments(2)

気がついたら大晦日。  

 最近は、諸般の事情によりなかなか思うように書き込みができていませんが、今年は多くの人の世話になってなんとか、大晦日までたどりつきました。

 一言では足りないのですが、“有り難うございました。”

# by kaguragawa | 2011-12-31 23:34 | Trackback | Comments(0)

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