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めぐり逢うことばたち(exblog版)  

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版「めぐり逢うことばたち」       

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。

# by kaguragawa | 2012-07-01 23:55 | Trackback | Comments(10)

霜川に登場する《船蟲村》  

 先日、啄木が評した霜川の短編「悪血」のことを書きましたが、この「悪血」の紹介をしようと思いながら日が経ってしまいました。ところで、この小説の主人公である工夫「鉄」の出身地として書かれているのが奥州・青森県の《船虫村》。実在の地名ではありませんが、この「船虫村」」が登場する霜川の小説が私が知っているもので3編あり、これらにはある共通した話題があるのです。そのことを、書くのに躊躇しているのです。
 と、ここまで書いた今、宅配便で『矢部喜好平和文集――最初の良心的兵役拒否』(教文館/1996.7)が届きました。…充分な準備はできていませんが、思い切って書くことにしましょう。

 霜川の「船虫村もの」(「荒浪」「あら磯」「悪血」)は、「兵役拒否」を一つのテーマとしているのです。なかでも「荒浪」は、日露戦争の真っ最中の1904年11月『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』に発表されたもの。
 「荒浪」の主人公・順之助は、“私は死ぬのを嫌うんじゃないといっているじゃないか。場合によって、私は自分で額に弾を喰わせて死ぬ勇気もある……自分の心から出たのなら、私は平気で死んでみせる。けれども他(ひと)からの命令で死ぬと言うのだから、私は嫌だ!。私の生命は、私の所有(もの)だ。ほかのものには指もさわらせたくない。私は人の権利を主張するのだ。”“私は、戦争が嫌だ。大嫌いだ……嫌な理由は、いつもお前に話しといたはずだ。なにしろ人と人とが殺し合うんだ。”と言い、一旦は入営しますが直後に脱営し、死を選びます。愛する妻の説得が無ければ、当初から入営そのものを拒否していたはずです。
 一方、矢部喜好が兵役拒否のため召集不応の罪を問われ、禁固2か月の判決を宣告されたのが、1905年3月のこと。霜川は、順之助をクリスチャンとしていますから、矢部のそれまでの思想と行動を知っていたとも考えられるのですが、それにしても、実際矢部の手元に召集令状がきたのは1905年2月のことですから、霜川の小説は矢部喜好の行動を予見したような形になっています。
 こうした重要なことが今までの霜川研究でも、戦争と文学の話題でも、日本の良心的兵役拒否の問題でも、指摘されたことがないのです。

 三島霜川は、日本で初めて良心的兵役拒否を宣明した矢部喜好のことを知っていたのでしょうか、それとも、みずからの思想の中から兵役拒否を実行する人物をつくりだしたのでしょうか。それにしてもロシアとの大きな戦争に好戦的な気分が盛り上がる中で、恩人たる義父にも逆らい、非戦の思想を表明して、兵役拒否をした青年――こうした人物を、戦争文学の牙城の雑誌に発表した三島霜川と言う人物は果たしていかなる人物だったのでしょうか。
 ――この問いは、これは多少とも霜川の文学に親しんできた私にとっては、単なる疑問ではなく途惑いに近いものです。正直なところ、問題の重さがわかってくるにつけて、思考停止に近いくらいの衝撃をかかえながら日々を過ごしています。

〔追記〕
 充分な準備もなく、大切な問題を書いてしまいました。「荒浪」のていていな分析も必要ですし、矢部喜好のことも、あらためて調べてみたいと思っています。少し、時間をいただきたいと思います。
〔追記2〕
 『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』(育英舎刊)は、単なる戦争賛美の雑誌ではなかったようである。この雑誌については、このブログの「『日露戦争実記』の霜川」(2010年8月8日)に黒岩比佐子さんに教えていただいたことが書いてあります。ただし、この時点では、私は「荒浪」は読んでいませんでした。黒岩さんも、『日露戦争実記』掲載の「島の大尉」「預言者」という霜川の2作品は読まれたようですが、「荒浪」は読まれなかったようです。

# by kaguragawa | 2012-05-26 20:25 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:5月24日  

 5月24日。この日に気になる女性が何人も亡くなっている。お名前だけを挙げさせてもらう。

 正岡 律   1870.10.25~1941.05.24 
 平塚らいてう 1886.02.10~1971.05.24
 大庭みな子  1930.11.11~2007.05.24

 子規の妹さん律さんの生年月日は、勝手に西暦に換算させていただいています。本来は、明治3年10月1日。

# by kaguragawa | 2012-05-24 23:11 | Trackback | Comments(0)

たまに日記  

19日(土)
 秋聲入門講座(徳田秋聲記念館)。秋山稔先生の講じる「或売笑婦の話」。秋山先生の講義は入門講座と言うよりは、スーパー入門講座。秋聲になじみのあまりない方にも、長年秋聲に親しんできた者にも、秋聲があらためて身近に感じられる魅力あるもの。細部までていねいに読みこまれた“秋山=秋聲”が、情熱をこめて語られるのが魅力。

20日(日)
 高岡の清水薬局をT先生とぶらり訪問。今はこじんまりとした薬局だが、江戸時代から続く薬種商「清水家」である。この清水家に、江戸時代に書かれた越中記『喚起泉達録』の写本が伝えられていたのである。ちょうど店頭でお会いした夫人から、興味深い話をうかがう。
 それにしても、8年も前のことではあるが、清水家を訪問もせずに、「清水家文書・写本『喚起泉達録』について」というレポートを、書いたこと忸怩たる思いで反省。

21日(月)
 通勤途上、7時35分頃、路上で太陽を仰ぐ人々がたくさんいる。
思わず、声をかけて黒い板?を貸してもらい太陽をのぞく。富山は、左上に細い太陽が残る部分日食。しかしなぜみんな太陽の満ち欠けばかりさわぐのだろう。私には、影はくっきりと地に射しているのに、照度がどんどん落され茶色っぽく?暗くなっていく地上全体の独特な雰囲気がなんともいえず神秘的でした。         (携帯のカメラでは暗さ、記録できませんでしたが。)
 所用で外出した車中のFMで、フィッシャー=ディースカウ (Dietrich Fischer-Dieskau) のシューベルトとバッハが聴けました。〔1925.05.28~2012.05.18〕。ディースカウは、"Im wunderschönen Monat Mai "(美しき五月に)生まれ亡くなったのだ。

 帰ってきたらHさんから娘さん代筆の懇切なメールが届いてました。早いご本復をお祈りします。

# by kaguragawa | 2012-05-21 23:57 | Trackback | Comments(0)

おろかな笑い話・・・《石川啄木全集》の怪  

 以下、おろかな笑い話である。先日の《啄木、三島霜川を論ず(1)》 中の啄木の文章は、戦前の改造社版の「石川啄木全集」第4巻〔1929(昭4)〕からの引用である。なんでそんな古い本から引用したのかといぶかる人もいるかもしれない。答えは単純である。図書館に改造社版の「石川啄木全集」しかなかった!のである。
 先週の土曜日、私は本を返しにいったT市立図書館で、ふと思いついてそこにあるパソコンの端末で、そこにあるはずの石川啄木の全集を検索したのである。が、何度検索しても。県庁所在地のT市立図書館に「石川啄木全集」は所蔵されていなかったのである。
 「そんなばかな?!」・・・で、私は、窓口の職員の方に尋ねたのである。するとその方は、「レファレンス」の窓口を紹介くださったのである。
 そこでわかったこと。T市立図書館には間違いなく「石川啄木全集」がないこと。T県立図書館には、改造社版の「石川啄木全集」があること。T2市立図書館にも改造社版の「石川啄木全集」があること。そしてそのレファレンス担当の方は、苦労して改造社版「石川啄木全集」は全5巻の構成であること。よってT県立、T2市立図書館ともに全巻所蔵されていることを確認されたのである。

 (ここまで読まれた方で、もうこの“愚かな話”の裏にお気づきの方もあるかも知れませんが、続けます。以下実名にします。)

 で、私は富山市立図書館から富山駅に急ぎ、ギリギリで上り列車に飛び込みJR高岡駅に隣接する高岡市立図書館に向かったのである。で、館内のパソコン端末に向かい、「い・し・か・わ・た・く・ぼ・く・ぜ・ん・し・ゅ・う」とモニター画面の文字を、指で拾ったのある。ああ、なんたること!。富山市立図書館で、高岡市立図書館にあると言われた「石川啄木全集」は、そこ「高岡市立〔中央〕図書館」ではなく「高岡市立〔伏木〕図書館」の所蔵だったのである・・・。というわけで、「石川啄木全集」にふられ続けた一日となったのである。


 高岡市立図書館には主だった分館が、伏木や戸出など、それぞれに歴史のある町にあることは、よく知っていながら、「高岡市立図書館」と言われて、それが中央図書館なのか、分館なのか確認しないまま駅に走ったのは、我ながらまったくおろかな所業だったのである。

  「石川啄木全集」の怪については、ほんとに情けなくなる話である。
 四日前。探していたわけでもないのにひょっこりでてきた「高岡市立中央図書館」の蔵書印までいっしょに写っているコピーひと束。一昨年、『一握の砂』に収録されていない雑誌掲載の短歌を見たくて「高岡市立中央図書館」に出掛けてコピーした啄木の全集の一部。本文のほかにコピーした扉ページの題字と奥付のページにあったのは「啄木全集」の文字。

 そう、筑摩からでている啄木の全集は、《啄木全集》であって、《石川啄木全集》ではないのである。

# by kaguragawa | 2012-05-18 23:12 | Trackback | Comments(0)

啄木、三島霜川を論ず(1)  

 雑誌『紅苜蓿』第7号〔1907(明40)〕に、「六月の雑誌界」として寄せられた評論の一部を紹介します。 『新小説』に掲載された三島霜川の小説「悪血」が取り上げられています。

 “二番目は三島霜川氏の「悪血」。凄まじい題だなと思って読む。結末に近づくにしたがって三年も前に古本屋に売ったゴルキイの短編集が、無性になつかしくなった。一体自分は、いわゆる「……誰かに生んでもらった、けれども誰にも育ててもらわなかった」という鉄さんのような自然児の前には、理屈なしに頭を下げて見たいような気がする。がしかし、この作では筆に力が足らない。否、人物に力が足らない、まだまだ足らない。性格だけは現われているが、その性格の活動が書いてないように思う。そして何となく島国人の作だという感じがする。これは多分この種の人間に対する作者の同情が深くない結果であろう。しかしどこかにこう人生の裏海に荒んでいる凄まじい嵐の音が籠っていて、女学生と角帽が握手をしている小説よりは、はるかに自分を喜ばせた。”

 『紅苜蓿』(べにまごやし/れっどくろばあ)。これは、函館の地で同人によって発行された文学雑誌ですから、文壇でもあまり注目されずほとんど読まれなかったものでしょう。また、霜川本人も、この評論は読んでいないのではと思いますし、この雑誌の存在すら知らなかったかも知れません。
 評者は、「自然児」を描くに霜川の筆は「力が足らない」と容赦ない論断を下す一方で、「人生の裏海の荒(すさ)んでいる凄まじい嵐の音が籠(こも)ってい」る、と深く含みのある表現で霜川作品の特徴をつかんでいます。
  実は、私もこの論考を目にしたのは、昨日のこと。ある偶然から、この論考にたどりつきました。その経緯についてはあらためて書こうと思いますが、霜川を多少読んできた者には、肯定したくなる評言に、目が釘付けになりました。

 『紅苜蓿』に、「六月の雑誌界」を書いたのは誰あろう、北海道に渡って『紅苜蓿』の編集を始めた石川啄木なのです。

(続く)

# by kaguragawa | 2012-05-13 19:19 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ:霜川と「成功雑誌社」  

 雑誌『殖民世界』――成功雑誌社、1908(明治41)年5月創刊――の1巻4号(明41・8・7)に三島霜川の小説「一軒屋」という作品が載っている。偶然、あることをweb検索していて見つけたもの。これは、今までの霜川書誌には記されてないもの。

 ところで、霜川と「成功雑誌社」とのつながりを調べようと思っていて、まだ手つかずである。「成功雑誌社」の『探検世界』にかなり霜川が寄稿しているのです。また、春陽堂の編集者を経てこの「成功雑誌社」をつくり『成功』『探検世界』『殖民世界』などの雑誌を発行し、当時の南極探検にも関わっていた村上濁浪〔1872?~1924.10.20〕についても知りたいと思っているのですが。

〔追記〕
 「ひとつ屋」という霜川の作品が、1900(明33)年4月の『文芸倶楽部』にあるが、この「ひとつ屋」と上記の「一軒屋」の関係も興味あるところ。(なお、この「ひとつ屋」は、1901(明34)9月『新小説』掲載の「星」へと改編されている。)

# by kaguragawa | 2012-05-13 00:09 | Trackback | Comments(0)

スズラン  


 《Mary's tears》《Our Lady's tears》 「聖母マリアの涙」とも呼ばれるスズラン。

 人災で始まったゴールデンウィークは自然災害で終わり、国内の原子力発電所はすべてが運転を停止した。
 今、深く思いを致さねばならぬことの多さにたじろぐばかりである。

# by kaguragawa | 2012-05-06 18:27 | Trackback | Comments(0)

啄木、北海道に渡る〔5月4日・5月5日〕  

 5月4日、5月5日は、石川啄木の生涯にとっていくつかの節目となる日であった。
 啄木にとってはかけがいのない友・金田一京助の誕生日〔1882(明15)年)〕が5月5日であるし、夫人・節子さんが啄木逝去の翌年〔1913(大2)年〕、函館で啄木と同じく結核で亡くなったのも5月5日である。
 また、北海道での1年間の放浪を経て上京し、金田一京助の本郷の下宿赤心館〔本郷区菊坂82(現文京区本郷5-5)〕に転がり込んだのが1908年5月4日で、その翌日5日に札幌の友人・向井永太郎宛ての書簡で「小生の文学的運命を極度まで試験する決心に候」と書いたのでした。つまり啄木最後の東京生活始まりの画期となった日だったのです。

 しかし啄木本人にとって印象深い〔5月4日・5日〕は、最後の上京1年前の1907(明40)年の渋民から北海道への旅立ちであったのではないでしょうか。以下、啄木の日記〔「明治四十丁未歳日誌」〕から。

 〔5月4日〕夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。浮流水雷の津軽海峡に流るゝありて、夜間の航海禁ぜられたれば、翌午前三時にあらでは出港せずといふ。
 夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海は黒し。舷を洗ふ波の音は、何か底しれぬ海の思ひを告げむとするにやあらむ。空は月無く、夜雲むらがりて、見えつ隠れつする星二つ三つ淋しげに、千里の外より吹き来る海風は、絶間もなく我が袂を払って、また忽ち千里の暗に吹き去れり。予は一人甲板に立ちつくしつ。陸も眠り海も眠り、船中の人も皆寝静まれるに、覚めたるは劫風と我とのみ。雲に閉ぢたる故郷の空を瞻望して、千古一色の夜気を胸深く吸へば、噫、我が感慨は実に無量たりき。この無量の感慨、これを披瀝するとも、解するもの恐らくは天が下に一人も無けん。
 予は跪きつ。浩蕩たる夜天に火よりも熱き祷を捧げたり。とぢたる目に浮ぶは、浅緑の日暖かき五月の渋民なり。我涙は急雨の如く下れり。
 あゝ、故里許り恋しきはなし。我は妻を思ひつ、老ひたる母を思ひつ、をさなき京子を思ひつ。我が渋民の小さき天地はいと鮮やかに眼にうかびき。さてまた、かの夜半の蛙の歌の繁かりしなつかしき友が室を忍びつ。我はいと悲しかりき。三等船室の棚に、さながら荷物の如く眠れるは午前一時半頃にやありけむ。
我は世界に家なき浪々の逸民たり。。



# by kaguragawa | 2012-05-05 07:09 | Trackback | Comments(0)

啄木、北海道に渡る〔5月4日・5月5日〕(2)  

 〔5月5日〕五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。
 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。
 予は少しも常に変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。
 偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思ひをか天に向って訴へむとすらむ。檣をかすむる白鴎の悲鳴は絹を裂く如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。
 山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ不断の覚醒たり。不朽の自由なり。
 海を見よ、一切の人間よ、皆来つて此海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民たり。今来つて此海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力たり。
 噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。
 我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。



# by kaguragawa | 2012-05-05 07:08 | Trackback | Comments(0)

夕暮れどき  


 説明するのも野暮なのですが、ケヤキの枝の間に窓ガラスに映った落日が見えます。

# by kaguragawa | 2012-05-02 21:45 | Trackback | Comments(0)

ここがロードスだ、跳べ!  

 
“うわーっ”、“えっ!”ということばが思わず口から出そうになった瞬間でした。

 三連休の3日目、ちょっと街歩きでもしようかと起きがけにふと思い、手元にある地図や資料だけかばんに入れて家を出ました。探そうとしたのは、富山市の旧町《古手伝町》。(現在「松川」として残る神通川旧河道の北側は、“橋北”“橋向う”とか呼ばれていました。ここに「舟橋」があったからです。旧神通川の左岸にあった「船頭町」「手伝町」「古手伝町」などが現在の何町に当るのか、はっきりしないのです。)だいたいの位置はわかっているものの、もう少し範囲を絞り込んで、その地を歩いて見よう思いたったのです。
 
 資料を読もうと当てにしていた喫茶店は休み。しかたなく近くの公園のベンチで、やおら資料に目を通し、新地名の地図ながらも昭和期(50年頃)の地図を片手に、地図と現地を照合しながら歩き出したところでした。地図とキョロキョロ見の不審者に、親切に声をかけてくださった方がいました。

 “どこか、お探しですか?”

 この年になっても人見知りが抜けない私は、いつもなら「ええ」とぼやかして逃げてしまうのですが、今日は多少虫の居所が違ったのでしょう、“もとの古手伝町は、この辺りですか”と、お尋ねしてみました。期待はまったくしてなくて、声をかけていただいたことに対する礼儀として、ありのままをお答えしたしただけだったのです。

 “そうですよ”――思わずも、しっかりとした返事がその男性から戻ってきました。が、「今・ここ」から時代を飛び越えた質問に、答えた男性にも、答えられた私にも、驚きの表情はあったはずです。そして、私は、何かに背中を押されるような気持ちで、ここがロードスだ!とばかり、もう一つお尋ねしたのです。
 
 “「●●焼き」のお店って、この辺りにあったものでしょうか?”

 突拍子もない、しかも半世紀ほど前の話に、その通りがかりの人が答えてくれるとも思ってはいませんでした、が。

 “あっ、あそこに××病院が見えるでしょう。あそこ。”

 と、後ろを振り返って指さしたその男性は、今来た道を引き返して私を案内してくれるのです。思いもよらぬ展開です。
 “えっ、ご存じなんですか!”ということばをのみ込んで、信じられない気持で、その男性の後について一歩一歩歩き始めました。それほど年配とも見えぬ男性、ゆっくりゆっくりとした歩みなのです。
 歩きながら何度“うわーっ、信じられん”と叫んだことでしょう。
(続く)


  *「古手伝町」は、“ふるてったいまち”と呼ばれていました。

# by kaguragawa | 2012-04-30 15:48 | Trackback | Comments(0)

《新島襄》《津田仙》《高田畊安》  

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。
 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、独歩の死に遡る十年前〔1898(明31)年〕に生を享けた《八木重吉》は、1927年(昭2)年に29歳で生を閉じています。

 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。
 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。

 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死の十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。

 そして何の因果か、独歩が亡くなった神奈川県茅ケ崎の結核療養所「南湖院」で、重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も、二人を結んでいる不思議な人物です。

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945

    *******************************************************

 ここまでは、6年前前の旧日記「めぐり会うことばたち」に書いたものです。その後、《冨永徳磨》が北陸の金沢に深く関わっていたことを驚きをもって知りました。そのご徳磨が富山の各地にも説教に足を運んでいたこともわかってきましたが調べる余裕もなく時を過ごしていますが。
 そしてもう一人の《高田畊安》についても、その師・新島襄とのつながりが少しわかってきました。とすれば、《津田仙》と《高田畊安》のつながりも気になってきます。
 そうしたことをいずれ書こうかと、予告めいたメモを書いた次第です。


 

# by kaguragawa | 2012-04-28 16:04 | Trackback | Comments(2)

竹沢哲夫さんのご冥福をお祈りします  

 弁護士の竹沢哲夫さんが亡くなられた。

 web上の訃報を(MSN産経ニュースから)紹介します。
 
 “竹沢哲夫氏(たけざわ・てつお=弁護士、元日弁連人権擁護委員長)24日、心不全のため死去、85歳。通夜は28日午後6時、葬儀・告別式は29日午前10時半、東京都練馬区春日町4の17の1、愛染院会館で。喪主は妻、貞子さん。
 日弁連で人権擁護委員長や再審法改正実行委員長を歴任。松川事件や青梅事件の弁護人を務めたほか、帝銀事件や横浜事件の再審に携わった。”

 先日紹介した泊・横浜事件をはじめ竹沢さんが関わられた権力との闘いの裁判は数多い。といってもその一つ一つに何ほどのことを知っているわけではないので、ていねいなご紹介ができないのを申し訳なく思います。『裁判が誤ったとき――請求者の側からみた再審』(1990)『戦後裁判史断章―― 一弁護士の体験から 』(2006)などの著書も読まないまま。不勉強の極みを恥かしく思います。

 竹沢さんは、富山県西砺波郡戸出町(現在高岡市)のご出身。1926(大正15)年7月25日のお生まれだから85歳(享年86)。ご冥福をお祈りします。

〔追記〕
 どの新聞記事にもふれられてないのが「小繋事件」弁護士としての竹沢さんのこと。いつ竹沢さんのことを知ったのだろうと考えていて、浮かんできたのが「小繋事件」や戒能通孝さんと竹沢さんのことでした。このことだけでも少し調べて書きたいと思うのですが。少し時間をいただきたいと思います。


# by kaguragawa | 2012-04-27 23:51 | Trackback | Comments(0)

春の諸相(4)  


 シラン(紫蘭)の芽吹き

# by kaguragawa | 2012-04-25 23:38 | Trackback | Comments(0)

『古沢太穂句集』  

 偶然入手した『古沢太穂句集』(1955.10)。
 なんと栗林一石路(農夫)への献句が認めてある。貴重なもの。


   冬夜うたう信濃馬子うた君老いざれ  太穂

  栗林農夫様


*古沢太穂が富山県の生まれであることはあまり知られていない。
 上新川郡大久保町(現富山市)生。 1913.08.01~2000.03.02

〔追い書き〕
 太穂には「聴の詩人」の一面があるのではないかと、僭越ながら思います。が、ふるさとの瀬音は耳朶にあたたかく聴こえてくるものではなかったようである。


  カドミ田のいずれへ瀬音風の盆

  神通川音いつか瞼の枯れの音

# by kaguragawa | 2012-04-24 20:11 | Trackback | Comments(0)

『泊・横浜事件七〇年――端緒の地から あらためて問う』-1  

 ちょっと出かけて帰ってきたらば、「細川嘉六ふるさと研究会」の金澤敏子さんから『泊・横浜事件七〇年――端緒の地から あらためて問う』(2012.4/梧桐書院)が届いていました。
 泊・横浜事件についてほとんど知ることのない私には、この本を真正面から紹介しすることもできないのですが、じっくりと読ませていただきたいと思う。拾い読みのなかで見つけた次の一節を書き写して、あらためて昭和10年代後半の言論と権力の相克を思い起こしたいと思います。

 “朝日町立ふるさと美術館はこのブロンズ像〔注:細川嘉六像〕のほかに細川夫妻を描いた油彩画も所蔵している。この油彩画は評論家・内田魯庵の長男で洋画家の内田巌が描いたものである。内田は1946(昭和21)年、日本美術会を結成し初代書記長に就任、戦後のプロレタリア美術界を牽引した画家であるが、戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任を追及したことでも知られている。”

 内田巌の挿絵をともなって都新聞に連載されていた徳田秋聲の「縮図」が、内閣直属の情報局からの度々の干渉をうけ「作者病気のため十五日紙上をもって一先ず打ち切ることとなりました。」との社告もって中断されたのが、1941(昭16)年9月のこと(紹介した社告は、9月13日付。なお、中断は、「妥協すれば作品が腑抜けになる」との秋聲の判断による。)
そして、《泊・横浜事件》の端緒となった細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」(『改造』掲載)が、政府を批判するものとされ、細川が治安維持法違反の容疑で逮捕されたのは、まさにちょうどその1年後の1941(昭17)年9月14日のことでした。

〔追記〕
 今になって思い出したのですが、『細川嘉六著作集』は、先日亡くなられた小宮山量平氏の理論社から発刊されていたのでしたね。
 そして、本論とは別のことがらですが、〔年譜〕中に鈴木馬左也の名を見つけました。自分のメモとして付記しておきます。


# by kaguragawa | 2012-04-22 16:59 | Trackback | Comments(2)

春の諸相(3)  


  つぼみのほぐれ始めたハナミズキ。この枝の不思議な放射状が好きなのです。

# by kaguragawa | 2012-04-20 23:50 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (4)  

 この項を、「三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続きとして書こうか、「霜川「昔の女」をエッセイとして読む」の続きとして書こうか迷ったのですが、対象としている事項の比重の大きさから「《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続稿とします。
 昨年9月に《本郷六丁目九番地 奥長屋》の項を書いた後で、この路地が以前から不思議なゾーンとしていくつかのwebサイトで、紹介されているのを発見したのですが、東大赤門前にこんな!という驚きは、この路地を知った人の共通するもののようです。


 霜川は、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》について、高橋山風宛ての書簡でこう書いていました。

 “生は本日を以て長屋居住を決行致し申し候。長屋と申しても最も劣等なる種類にこれ有り。其は鮫が橋に見られる穢屋(あいおく)にござ候。屋賃は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、都合二軒にて合計一円六十銭、いかに廉価に候わずや。一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。其れは屋根裏を見て天床を見ず、一棟都合六軒いわゆる九尺二間の屋台骨にござ候。”

 実は、なんとこの当時の霜川の路地暮らしを語る同時代人の資料が存在したのです!。思ってもいないことであり、驚きでした。語るのは斎藤弔花、出典は先日紹介した『国木田独歩と其周囲』です。

 “霜川は紅葉門下とはいうものの、外様で、徳田秋聲に兄事していた一人、偏屈人で、赤門前の裏長屋に住んでいた。本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。両側に汚い二間宛の家が五六軒づつの割長屋で、その奥に古い槐(えんじゅ)の大木が風にピューピュー鳴っていた。霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。彼の家で手洗盥や、歯磨、楊枝はみたことはない。万年床の綿がはみ出している。反古の山の中に座って夜っ徹(ぴ)て何か書いていた。鶏の啼く頃、くるりと万年床に潜り込んで寝る。年中戸締まりをしたことはない。夜遊びに更けて、帰るに家のない連中は、本郷のこの槐長屋の家に泊まり込んだ。”

 弔花の文は、山風宛て霜川の書簡と符合する点の多いことに気づきます。
 霜川が「屋賃〔家賃〕は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、(中略)一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。」と書いているように三島家は、2軒借りていました。1軒は霜川がみずから書斎として使用するための家、もう1軒は家族のためのものです。弔花は、伝聞としてではなく実見によって書いているであろうことが読み取れる文章でこう書いています。「霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。」 
 併せて読むと、霜川自身は路地に並ぶ割長屋の南側、より上等な家賃八十五銭の家。家族(母と妹たち)は、北側、家賃七十五銭の家に分かれて住んでいた・・・(家賃は逆の可能性がありますが、霜川の書斎で来客もある方が、条件の良い物件だったと考えてよいでしょう。)。
 それにしても弔花さん、霜川が路地の南側(法真寺側)に住んでいたということまで記録に残しておいてくれました。有り難いことです。“窓の下は古墳塁々として塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満致し居り候。”と、霜川が書いたのは、まさしくあの樋口一葉ゆかりの法真寺の墓地のことだったのです。

 
おおよそ半年ほどしか住んでいなかったこの「奥屋敷」のことが、霜川と弔花の文によってパッとスポット照明がついたように鮮明に眼前に現れてきました。それにしても霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》の住まいについてこれほどのことがわかろうとは驚きの限りです。  
 
 いずれにせよ、2012年の現時点で、東大の赤門前にこんな一画がという驚きは、70年の時空を超えて弔花の“本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。”という弔花のメッセージにつながっていくから、これまた驚きです。

*写真は、今もこの赤門前路地に残る現役のポンプ式井戸

 実は、うれしいことに、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》のことについては、私にとって新知見がここ数ヶ月の間にいくつもいくつも得られたのです。
 続く報告は、この明治34年の事前と事後のことがらになります。
 (続く)


# by kaguragawa | 2012-04-19 22:57 | Trackback | Comments(0)

霜川の秋声宛て書簡(はがき)のこと(1)  

 このブログでふれないわけにはいけないので、ひと言。今朝の北日本新聞に《三島霜川から徳田秋声へ 直筆はがき発見》のタイトルで、大きく報じられていることがら。興味ある方は、記事を読んでいただくのが一番だが、県内にせよすべての人が北日本新聞を購読されているわけでもないので、近いうちに私なりにあらためて紹介したいと思います。

 なにより驚いたのが、写真の鮮明さ。はがきの細かな字がきちんと読みとれるのですからびっくりです。といっても、読みにくい字体もあるので、大正6年10月22日消印の霜川の秋聲宛て書簡の文面だけ、ここに紹介しておきます。 

   拝復 本日、上田君の方へ卅五回だけ、
   お届けして置きました。後は何れ
   にしても書きつゞける積りでございます。
   いろいろ有難うございました。尤も名古
   屋の方へ、もッとハデなものを書かうと思ッ
   てゐたのですが、とにかく只今書きさしの
   分を届けて置くことに致しました。
   餘は何れお目にかゝツて申上げます。
     両三日中に些ツとお邪魔致します

拝復
本日、上田君の方へ三十五回だけ、お届けして置きました。後は何れにしても書きつづける積りでございます。いろいろ有難うございました。
尤(もっと)も名古屋の方へ、もっとハデなものを書こうと思っていたのですが、とにかく只今書きさしの分を届けて置くことに致しました。
余は何れお目にかかって申し上げます。
  両三日中に些(ちょ)っとお邪魔致します

# by kaguragawa | 2012-04-15 15:12 | Trackback | Comments(0)

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