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めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                                       野口冨士男
  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                                       堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞を読む会 」は、〔ここ〕です。
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# by kaguragawa | 2017-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

富山文学の会 第8回研究大会   

富山文学の会 第8回研究大会のお知らせ

 日時:2017年3月4日(土) 13:00 - 16:00
 場所:富山大学 人文学部2F 4番教室
 
  講演
   「「日本海詩人」のこと、千石喜久のこと」
     上田 正行氏 (徳田秋聲記念館・室生犀星記念館 館長)

  研究発表
    「横山源之助と郷土の人々」 
      黒﨑 真美
    「山内マリコ作品における〈地方〉と〈階層〉」
      小谷 瑛輔

※くわしくは「富山文学の会」HP
https://www.toyamabungakunokai.com/


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# by kaguragawa | 2017-02-25 18:53 | Trackback | Comments(0)

「人間は要求する。」   

雨は降り
風は吹く
人間は要求す。

 この「人間は要求する」という三行詩は千石喜久(せんごく・きく)のもの。
 千石喜久は、1930年の今日(2月6日)、満30歳の誕生の日を待たずに腸チフスで亡くなる。

 ※千石喜久 1900.05.25~1930.02.06

 富山県水橋は幾人もの詩人、童話詩人、詩研究者を生んでいる詩にゆかりのある地だ。


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# by kaguragawa | 2017-02-06 19:13 | Trackback | Comments(0)

ちょっとメモ。2017.1.23   

 ちょっとメモ。

 三島正六。池袋児童の村小学校。野村芳兵衛。梅原真隆。
 おお、野村芳兵衛文書目録のなかに正六さんの『歪められた少年期』。

 「つるべいの家族に乾杯」。あっ、杉山さんだ。数十年前にお世話になった、当時八尾町役場に居られた、杉山さん。

 「文部科学省」天下りに、目くらましの想定問答集!?。こんな図式があるんやったら、厳格な?センター試験にいのちをかけている若者の生き方なんて、無意味じゃん。お役人さん、あんたら、ええ加減にしときや。

 川面稜一さん。「続けることが勉強です」。
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# by kaguragawa | 2017-01-23 23:34 | Trackback | Comments(0)

ある寒中お見舞い   

 H先生の奥様より「寒中お見舞い」、“夫が昨年三月に亡くなりまして”、と。

 H先生には、デュギーという法学者の名を教えていただいた、むろんデュギーだけではない多くのフランスの法思想家や法学者・・・。恒藤恭もそうだ。先生の師であった田畑忍も。
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# by kaguragawa | 2017-01-09 19:35 | Trackback | Comments(0)

遅いごあいさつとなりました   

 明けましておめでとうございます。

 自宅のパソコンをほとんど開かなくなったため、遅いようやくのごあいさつとなりました。

 年が明けてもう10日にならんとするも、元日より「めでた、めでた」のという気持ちは遠い。

 それでも私的なニュースはいくつかある。追い追いそうしたことも書いていきたい。
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# by kaguragawa | 2017-01-09 19:22 | Trackback | Comments(0)

今年驚きのできごとを二つ   

 今年の最後の日の、今、いろんなことを思い出しながら、驚きのできごとを二つどうしても書いておきたい。

 ある作品を読んでいる間、自分の「眼」が変わってしまったこと、景観を見る視覚の構造が変わってしまったこと。今から思っても不思議だ。このことの詳細は、あらためて書きたいが、その本のタイトルだけは堀田善衞『美しきもの見し人は』。
 今年は、ちょっと苦労しながら堀田善衞に関する二つの小論(エッセイ風な小論文)を書くことができ、私なりの堀田学のスタート地点をつくれたことも、私事ながらここに書いてきたい。

 もう一つの驚き。ある亡くなった人に生き写しの人に、会ってその瞬間、その驚きに息の止まるような思いをしました。駅の改札口からでてこられたその人を見た瞬間、あの写真の人が、ここにいると思ったものだ。“三島霜川のお孫さん”。晩年の霜川の写真の人が目の前にいる・・・・。
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# by kaguragawa | 2016-12-31 22:56 | Trackback | Comments(0)

もちろん微力しかないが   

 「方丈記」が思いおこされる災害の状況はあってほしくない。が、糸魚川市の大火の報告をきいているとどうしても思い出さざるを得ない。文字通り“吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。”なのである。
 日本の古い市街地ではどこでも起こりうる火災事故であるが、似た街をもつ北陸人として、そして糸魚川には少し思いのある私にはひとごとは思えないのです。まして「姫川沿いにフェーン・・・」と言われると、「姫川」という名前だけで、ヌナカワヒメを想い出し、心は震えるのです。

吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。

 もちろん微力しかないが、私なりの声かけ程度のことはしたい。心を尽くしたい。
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# by kaguragawa | 2016-12-23 19:45 | Trackback | Comments(0)

NHK「ファミリーヒストリー」を見るたびに・・・・   

 NHKの番組「ファミリーヒストリー」を見るたびに思うこと・・・。

 過去の人たちを掘り出すことを課題?としている私には、この番組の掘り出すものについては、「すごいなぁ!」「かなわんなぁ」と驚嘆することしきりです。
 しかし、最近ばくぜんとした疑問と言うか、不安が起こってきます。本人のご諒解を得てはいるのでしょうが、NHKならではの力(信用?)と「財力」を使ってここまで「故人」を掘り起こし、“公共の電波に乗せ”ていいものなのでしょうか。その掘り出しの経緯と、掘り出して見えてきたもののおもしさが際立っていると言っても、それはしいていえば、特定の個人のプライヴァシーに関わることです。このことについては、見るたびに深い疑問が残ります。誰もそのことについてのを疑義や不安を問題提起しないことにも疑問が残ります。

 感動的な番組に文句付けるな!、――私自身、感嘆と感激の溜息と涙をもらしつづけているのですが――とお叱りを受けそうですが、私の漠とした不安だけは、公言しつつ、私自身のわずかな過去の掘り出しについても、その意味と公表については立ちどまって考えたいと思っているのです。
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# by kaguragawa | 2016-12-23 00:30 | Trackback | Comments(0)

小さな小さな論考   

 小さなテーマで、小さな小さな論考を一つ、書き上げました。ささやかな今後の道筋も。

 事実の連鎖を丹念に追っていくことの愉しさも。
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# by kaguragawa | 2016-12-16 21:46 | Trackback | Comments(0)

1931:旧制中学校に「我が建国の本義と国体の尊厳」   

 これは、よほどの教育史の専門家でないと知らない事実だろう、と思う。なぜなら法史学の専門研究者でも「中学校令施行規則」の改正などというところまで目を配っていないからだ。今日、偶然見つけた「中学校令施行規則中改正(昭和六年一月十日文部省令第二号)」だ。

 中学校令の改正(→第二次中学校令)にともなって制定された「中学校令施行規則」(明治三十四年三月五日文部省令第三号)が、1931年(昭和6年)に改正されたのだが(昭和六年一月十日文部省令第二号)、そこにあらたな章が追加され、今までの「第一章 学科及其ノ程度/第二章 学年教授日数及式日/第三章 編制/第四章 設備/第五章 設置及廃止/第六章 入学、在学、退学及懲戒」は、「第二章 学科及其ノ程度~」へと順に繰り下げられた。
 あらたに冒頭に加えられたのは「第一章 生徒教養ノ要旨」である。
 第一条に「小学校教育ノ基礎ニ拠リ一層高等ノ程度ニ於テ道徳教育及国民教育ヲ施シ生活上有用ナル普通ノ知能ヲ養ヒ且体育ヲ行フヲ以テ旨トシ特ニ左ノ事項ニ留意シテ其ノ生徒ヲ教養スベシ」としたうえで、その第一号に文部官僚はこう書いたのである。

 “教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ学校教育ノ全般ヨリ道徳教育ヲ行ハンコトヲ期シ常ニ生徒ヲ実践躬行ニ導キ殊ニ国民道徳ノ養成ニ意ヲ用ヒ我ガ建国ノ本義ト国体ノ尊厳ナル所以トヲ会得セシメ忠孝ノ大義ヲ明ニシ其ノ信念ヲ鞏固ナラシメンコトヲ期スベシ”

 「教育勅語の旨趣に基き」
 「学校教育の全般より道徳教育を行はんことを期し」
 「我が建国の本義と国体の尊厳なる所以とを会得せしめ」
 「忠孝の大義を明にし」

 もう一度繰り返すなら、これは1931年(昭和6年)1月になって、教育現場に直結した施行規則に――同年の新学期〔4月1日〕を実施日として――盛り込まれたものである。

 当時〔1930年代初頭〕の文部官僚が考えたこと、この法令改正を受けとめた教育の現場のありよう。こうしたことを、掘り出してみたいと考えている。それにしても私など、基本法令に手を触れず、こうした現場法規に「教育勅語」や「我が建国の本義」「国体の尊厳」「忠孝の大義」を持ち込む官僚の“ずるさ”を感じるのだが。
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# by kaguragawa | 2016-12-02 21:50 | Trackback | Comments(0)

スタバの“環水公園 冬の仲間達”   

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 金曜日の夕刻は、世界一美しい環境にあるといわれるスターバックスの富岩運河環水公園店で。

 店内には、“環水公園の冬の仲間達”!!!!
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# by kaguragawa | 2016-11-18 21:26 | Trackback | Comments(0)

鏡花、ポストの周りを廻る   

 泉鏡花が郵便物をポストに投函した後も、ちゃんと集配されるか心配でポストの周りをなんども廻っていたという有名な?エピソードがあります。つい先日、このエピソードの典拠(典拠の一つ?)を、偶然見つけましたので、以下に、その全文をここに写しておきます。八波則吉のエッセイ「此の師、此の弟子」がそれです。
 八波の書き方からしても、鏡花がここに書かれているような話をほかの場所でもしている可能性があるので、ほかの人の伝える同様のエピソードがあるのか知れませんし、鏡花自身がどこかで書いているかもしれませんが・・・。


 明治三十六年、紅葉山人が亡くなられて間もない時のことである。門人の泉鏡花氏が故郷の金沢へ帰省された。四高生の同志が氏を迎へて、一夜茶話会を催して山人の逸話を聴いた。席上、鏡花氏が語られた談話の中で、今なほ忘れ得ないものがある。
「紅葉先生は、実に文章に苦心されるお方でした。」
 と冒頭して、
「先生は、日本紙の原稿用紙に、毛筆で綺麗に書かれるのでしたが、書き損じた時は必ず丹念に張紙されたものです。時には、張った上に又張って、三重も四重も張られている個所があります。試に、そっと剥がして見ると、同じ字句の場合もあります。全く雕心鏤骨されたものである」
 と述べられた。金色夜叉中の名文を暗誦していた青年学徒は、さもこそと感激した。
 良時あつて鏡花が又言はれた。
「で、私は、先生の原稿を投函する時は、必ず二三度、ポストの周囲を見廻したものです。若しや貴重な原稿が函の外に落ちはしなかつたからうか……」
 これを聴いた自分は、此の師にしてして此の弟子ありと感じた。


 ※「此の師、此の弟子」〔『随筆 身辺雑話』(東洋図書/1936.11)より〕

 なお、文中の「良時」には「しばらく」のルビがついています。ほかのルビは省略しました。
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# by kaguragawa | 2016-11-16 22:36 | Trackback | Comments(0)

漱石と内田雄太郎(2)   

(承前)

追記〔2016.12.14〕
 昨日、『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店)を入手しました。なんと、内田雄太郎が漱石に宛てた絵はがきが、その表紙をかざっているのです。ただ、そのハガキが紹介されている本文(19p)のコメントには、内田について愛媛県尋常中学校から「郷里の富山県尋常中学校に転職」とあって、内田雄太郎が富山出身と読めるのです。果たしてそうなのでしょうか?。
 前項の(*2)に記したように、第四高等中学校の記録には「石川士族」とあるのです。「石川士族」は誤植なのでしょうか。(言うまでもまく、内田の第四高等中学校在学時、富山県は石川県から分離しています。)
 どなたかきちんとした情報を教えていただければと思います。

追記2〔2016.12.14〕
 内田雄太郎の「富山第二中学校」在任は、私の持っている「富山県立高岡中学校会員名簿」(昭和22)によれば、
 担任学科   数、物
 就任年月   明治三一、四
 転退任年月  明治三三、三
 本籍     石川
――となっており、内田が1898年4月の富山県高岡尋常中学校開校に合わせて、富山県尋常中学校から転任したことがわかる。
 彼の出身県が、「富山」でなはなく「石川」であることは、この本籍地記載からも間違いないと思われる。
 なお、この名簿では、内田雄太郎の名前の上に×印がついておりこの時点で(昭和22年12月調とのこと)亡くなっていたことがわかる。

追記3〔2016.12.15〕
 長島は岩波の『図書』(2016.11)で、富山県尋常中学校からの転任先を「富山県第二中学校」と記すが、内田の転任先は正確には「富山県高岡尋常中学校」である。「富山県第二中学校」に改名されるのは、転任1年後の1899年4月である。
 余談ながら、1899年4月に、「富山県第三中学校」が魚津に創設され、併せて「富山県尋常中学校」は、「富山県第一中学校」に改名し、さらに2年後の1901年10月に、第一(在・富山)、第二(在・高岡)、第三(在・魚津)の中学校はそれぞれ「県立富山中学校」「県立高岡中学校」「県立魚津中学校」と改名されることになる。
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# by kaguragawa | 2016-11-14 21:32 | Trackback | Comments(0)

急ぎメモ:漱石と内田雄太郎   

 きょう岩波書店の『図書』(2016.11)をのぞいていて【内田雄太郎】の名前に出会った〔長島裕子:漱石が翻刻した英語の教科書――丸善発行のアーサー・ヘルプスの文集〕。
 内田雄太郎――どこかで見た名前だと思って、検索してみたところ、私がその名前を最初に目にしたのは、金沢泉丘高等学校の「一泉同窓会」の会報誌「一泉」であることがわかった。以前、開成中学校(開成学園)のことを調べたときにこの会報誌〔十五号/平成元年3月〕のpdfを読んで、金沢と開成学園の不思議な縁に驚いたことがあるのだ。

 その内田雄太郎が漱石に宛てたユニークなはがきが残されているという(*1)。さらに長島さんの文章によると、内田雄太郎は明治三十年以降、富山県尋常中学校、富山県第二中学校など富山県下の旧制中学校にも在職したことがあるという。内田は富山に赴任する前に松山の愛媛県尋常中学校にいたことがあるのだが、その愛媛の中学校に着任した時(1896)、五高へと離任する夏目金之助と出会っているのではないかという。

 内田は、第四高等学校の前身の金沢第四高等中学校の卒業生で(*2)、故郷の金沢第一中学校に1919年から1927年まで数学の教師として在任しているという。

 長島さんの漱石エッセイを読み進めると富山ゆかりの北星堂まで登場してきて、ちょっとうれしい気持でページをくったことでした。

(おまけに)
 ・・・金沢には漱石と縁のある人間が米山保三郎や黒本植らを筆頭に多くいる。実はきょう、第四高等学校教授の八波則吉の金沢在任中の記録がないか探していたところだったので、少しばかり驚いた次第なのである。なぜというに、あまりふれられることはないが、金沢に足跡を残した八波則吉も、漱石に縁ある人物なのである(八波は、第五高等学校時代の夏目金之助の教え子)。

(*1)『漱石の愛した絵はがき』(岩波書店/2016.9) 未見

(*2)内田雄太郎は、金沢第四高等中学校の初回卒業生(本科・二部理科/明治22年7月卒業)。あのZ項で有名な木村栄と同期である。出生地など詳しいことはわからないが、卒業生名簿には、「石川/士族」とある。
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# by kaguragawa | 2016-11-11 21:52 | Trackback | Comments(0)

三島正六――牛込区原町   

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 牛込区原町二の五十二
    三 島 正 六

 おそらく住所の覚え書きとして書かれたメモのようだが、名前を〔章六〕と書いて〔正六〕と直し、訂正印?を押してある。
 誰が書いたものか?。――徳田一穂さんだ。
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# by kaguragawa | 2016-11-05 19:44 | Trackback | Comments(0)

一か月前の夕暮れ   

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ここ数日、冬の入り口のような日々。10月の夕暮れが懐かしい。いたち川の太平橋より雄山と剱。
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# by kaguragawa | 2016-11-03 19:42 | Trackback | Comments(0)

河合理右衛門、河合クニのことなど   

 富山出身の女性が東京音楽学校で瀧廉太郎の1年下に在籍したことは、6月29日の「瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)」に書きましたが、この女性《河合クニ》が、富山の演芸史には欠かせない存在である河合理右衛門の娘さんであることを今日知りました(*)。
 河合理右衛門についても、ユニークな総曲輪史誌『総曲輪懐古館』(1977)の主要な登場人物として名前は知っていますが、その生涯については私にはまったく未知の人です。

 そうした瀧廉太郎の周辺のことは、ゆっくり調べていきたいと思っています。河合理右衛門、河合クニ(田村クニ)についてご存じの方は、情報を寄せていただければ幸いです。

(*)スバル文化会(富山県内の文芸関係有志)が発行していた雑誌「スバル」(2巻5号/1934.9)掲載の「富山芸術文化史」(其の六)の「明治32年7月21日」の項に、次のように記されている。
 「富山市河合理右衛門氏次子クニ子は七月東京音楽学校専修部を卒業帰富せり。直ちに大阪清水谷高等女学校に奉職なす」
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# by kaguragawa | 2016-10-31 22:10 | Trackback | Comments(0)

きょう(10/14)の立山連峰   

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# by kaguragawa | 2016-10-14 21:27 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞――陸軍病院の「門」   

 「一九四三年、夏のある日、召集を解除されて僕は富山陸軍病院の門を出た。それはもう十三年も前のことだ。まったく昨日のことのようにしか思えないのだが。
 門を出て、背広服を着た自分を、僕は何か犯罪者のように感じた。部隊のなかで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あるいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい! と思っていた。」
(堀田善衞「魯迅の墓その他」1956.10)

 ここに書かれてあることを現地で確かめたくて、具体的には陸軍病院の「門」のあった場所に立ってみたくなり、古い地図も多少は参観し現地へ行く機会をうかがっていたのだが、いざ、連休を利用してこの地に足を運ぼうとしたら、この文章が載録されていた『堀田善衞上海日記』がどこを探しても見当たらない。「ええいっ、行こう」、資料ももたずに、駅に向かった。2日前の10月10日のことである。

 実は、富山陸軍病院の“跡地”に行くのは、初めてではない。少なくとも3度はいっているはずだ。堀田が生地・富山県の東部第48部隊に召集された後、営舎のトイレで転倒して肋骨を骨折し、陸軍病院に入院していたことは年譜上の事実であり、堀田自身がどこかで(しかも何箇所かで)書いていることだ。それ故に、今までにも何度かこの地を訪れたのだ。だが、「僕は陸軍病院の門を出た。・・・僕は門をふりかえった。それから一目散に駆け出した。」と書かれたこのエッセイを読んだ以上は、“あらためて”現地に立つしかない。――と、思い定めた。

 市内電車を終点の「大学前」で降り、かつての連隊跡地に建てられた富山大学の前を通り過ぎ、大学の角を左折し、さらに最初の交差点で右折。この道は、かつて富山連隊から陸軍病院を結んでいた田舎道だった道だ。牛ヶ首用水に架かる藤子橋を渡ったところが、もと陸軍病院の地。新しい地図で確認済みではあったものの、その跡地には今年の三月に小学校が近くから移ってきて新しく校舎が建っていた。そしてこの日は、体育の日にちなんで運動会であった。1,2年生かと思われる児童があわせて踊っているにぎやかな音楽が辺りを圧倒していたものの、基底に不思議な静けさがあった。そして私は正面にまだ紅葉していない、しめったような緑の、呉羽丘陵をながめて、小さな息をすることができた。堀田は呉羽丘陵の濃い緑を――時期は5月のはずだ――、眼に納めたはずだ。  (未了)


 註)引用文冒頭の「一九四三年」は、事実に即せば「一九四四年」である。堀田のこの“間違い”というより“思い違い”が、何に因るものなのか。別に考えてみたいものと思っている。
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# by kaguragawa | 2016-10-12 19:53 | Trackback | Comments(0)