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めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                                       野口冨士男
  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                                       堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞を読む会 」は、〔ここ〕です。
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# by kaguragawa | 2016-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

読み散らかし・・・から   

 いろんなものを読み散らかした夏休みでした。

 それでも表棹影の日記「まだ見ぬ君え」を――小林弘子『室生犀星と表棹影―青春の軌跡』収録文によって――再読(というか通読かつ精読)できたことは、うれしいことでした。
 余談ですが、日記中に「東都の鯨洋兄」の名を見つけて、半信半疑の思いをしました。私が知る「鯨洋」は、後に竹久夢二に関わった医師で歌人の岡田道一のことだったからです。岡田は和歌山県生まれで京都帝大医学部卒業ですから明治40年当時の「東都の鯨洋兄」に該当するのか、かなり疑問だったのですが、諸資料から岡田が一高を卒業して京大に進んだこともわかり(つまり京大生になる前の青春時代を東京で過ごしていたことがわかり)「鯨洋兄=岡田道一」の可能性が強まってきました。

 もうひとつ、驚いたのは、水守亀之助『続・わが文壇紀行』に、“堀田善衞の「二つの衝撃」(中央公論)で洩らしているように、文学者はもっと深いところを見て考えなければならぬ。”の文言をみつけたこと。
 明治・大正文学の語り部であるといってもよい水守が、戦後、堀田に言及していることにも驚いたのだが、堀田をこのように読んでいたとは(註:堀田「二つの衝撃」には「文学者はもっと深いところを見て・・・」の文言はない。)信じられないくらいの思いである。
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# by kaguragawa | 2016-08-15 22:16 | Trackback | Comments(0)

8月15日。   

8月15日。

 昨日の記事ランキング。
 
 1 佐伯安一さん
 2 三島霜川「ひとつ岩」――いわき市四倉の人々へ
 3 〔かきやま〕と〔かきもち〕
 4 [水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり
 5 上柿木畠の時空散策
 6 霜川の“水の郷”
 7 「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ
 8 渡瀬ドクトルことW氏〔亘理祐次郎〕について
 9 よりによって今日、富山の「産業革命遺産」を訪う
 10 原敬を語る服部之総

 いろいろな折に書いたなつかしい、だが未完結な、記事が並んでいる。


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# by kaguragawa | 2016-08-15 19:38 | Trackback | Comments(0)

佐伯安一さん   

 先日来、佐伯安一先生米寿記念文集『常民へのまなざし』を読んでいたところでしたので、今朝の新聞で、佐伯安一さんが亡くなられた記事に接して茫然としてしまいました。

 おそらく先生の最後の講演になったのであろう高岡の佐渡家文書についての講義を、野暮用のためお聞きする機会を失ってしまった心残りがずっと、尾を引いていました。

 佐伯安一さんと懇意にされていた方が私の周囲に何人もいらっしゃったので、先生にご紹介いただく機会が何度もあったのに、そして敢えてその機会を避けたわけでもないのに、先生には親しくお話させていただくこともかなわないままになりました。

 今後も、いやこれからこそ、遺された業績を通してお導きくださることを遠くで願いつつ、ご冥福をお祈りします。
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# by kaguragawa | 2016-08-04 22:47 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”(2)   

 「水の郷」と「水郷」の文体を比較できるように、併記してみては・・・とのNさんからの要望?もあり、前稿と同じ箇所をここにならべて紹介します。

・「水の郷」(『婦人界』明治三十七年六月号)より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。

・「水郷」(『文庫』明治39年7月号)より
水の郷と謂はれた位の土地であるから、実に川の多い村であツた。川と謂ツても、小川であツたが、自分の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、恰ど碁盤の目のやうになツてゐた。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかツた。川が多くツて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解る。蛍は奇麗な水の精とも謂ツて可よいのだから、自分の村には蛍が沢山ゐた。

 両作品の文体の違いはあきらかです。しかし、この両作品の違いは、文体の違いだけにとどまるものではありません。話の筋はほぼ同じなのですが、改稿作では紙幅の関係もあったのでしょうが 消しさられてしまった部分がかなりあるのです。
 きわどい言い方をすれば、「水の郷」は――日露戦争の――戦中文学であり、「水郷」は戦後文学です。そして、戦中文学であった「水の郷」に意識して書き込まれていた当時の霜川の「トゲ」の部分、これをしっかりと復元して書きとめておきたいというのが、ここ数年間、霜川作品を読んできた私のささやかな願いなのですが、なかなか余裕がありません。今回も、予告だけということで・・・。
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# by kaguragawa | 2016-08-04 22:04 | Trackback | Comments(0)

霜川の“水の郷”   

 三島霜川の作品には、清冽な小川が縦横に走りいつも微かな水音が聞こえているような村が登場する。霜川が“水の郷”と呼ぶ村である。まさに霜川(三島才二)の生まれ故郷である富山県西部の庄川右岸の砺波郡と射水郡にわたる一帯が、後背の丘陵地の伏流水が自噴しここかしこに流れるこうした村々だったのである。

 そうした“水の郷”が、そのタイトルも「水の郷」という小説(*1)の冒頭部分に描かれていますが、うかつにも「鶯屋敷」(*2)にもそうした描写があることに気をとめることがありませんでした。きのう、読み直して気づいた次第です。

  *1 「水の郷」 『婦人界』  明治37年6月号
  *2 「鶯屋敷」 『北國新聞』 明治40年1月20~23日

 ここで「鶯屋敷」のその部分を紹介しておくことにします。ここには、“水の郷”の語も出てきます。

・・・自体此の村は、水の便利が好い。村は、全く水の郷。戸毎の前後を遶つて、小流は、縦に横に流れてゐる。村の者は、此の流で夕、米をとぎ、朝、顔を洗ふのであつた。勿論鍬も洗へば、洗濯もする、鍋も洗へば、芥も捨てる、雖然流れは急であるから、汚れた物は直に流して了つて、何時でも清かである。此の朝も、流れは澄んで、鏡のやうであつた。

 なお、『婦人界』に発表された「水の郷」は、改変されて2年後に「水郷」の題で『文庫』に掲載されることになります。「水郷」の方は、――霜川顕彰の動きのなかで『三島霜川選集(上巻)』に収録され、現在、青空文庫でも読めますのでご覧いただければわかるように――文末が《だ・である調》であるのに対し、先行作の「水の郷」の方は、『婦人界』の読者を強く意識したのでしょう、《です・ます調》の語りかけるような文体が使われていて独特の味わいがあります。

 以下は、「水の郷」の“水の郷”紹介部分です。

・「水の郷」より
水の郷と謂はれた位の土地でありますから、実に川の多い村でございました。川と謂つても、小川でございましたが、私の生れた村は、背戸と謂はず、横手と謂はず、縦に横に幾筋となく小川が流れてゐて、まるで碁盤の目のやうになつて居りました。それに何の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷たかつたのでございます。川が多くつて、水が奇麗だ! それで、もう蛍が多いといふ事が解りませう。蛍は奇麗な水の精とも謂つて可いのでありますから、私の村には真箇に蛍が沢山ゐたのであります。


〔追記:1〕
 実は、霜川には「鶯屋敷」と題された作品がもう一つあるとされているのですが、残念ながら未見です。上掲の新聞掲載作「鶯屋敷」(明治40年)は、先行作であるそのもう一つの「鶯屋敷」の改稿作の可能性があるのですが、今は確かめようがありません。ただ、新聞掲載作のこの「鶯屋敷」中に、幼い女の子が福島安正の「討露軍歌」の断片を片言で口ずさんだりする箇所があり、日露戦争中に発表された先行作との関連を想像させています。

〔追記:2〕
 「水郷」という作品のタイトル“水郷”の読みは、当然に「すいごう」ではありません。当時「すいきょう」と読まれていた可能性が強いのです。この点についても、稿をあらためます。
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# by kaguragawa | 2016-08-01 23:17 | Trackback | Comments(0)

7月の終わりに   

 今月はいくつものことに――文字通り?――、追いつ=追われつ、で気がついたらブログの書き込みが皆無となってしまいました。
 せめて“みそか”の今日、メモをいくつか。

 丸山眞男については、名前を知っている程度のことなので当然のことでもあるのですがすが、彼のノートが『自己内対話』というタイトルで公刊されていたことを一昨日まで知りませんでした。

 (独り言ですが;「丸山眞男ってこんなにわかりやすい文章と簡潔な思考をもった人だったのですか?。」)

 昨日、『漱石紀行文集』(岩波文庫)購入。ブーイングを甘受しますが、思ったままを;「これらのうちのいくつかは、あえて文庫にいれるほどのものなのでしょうか。」

 今日、上掲文庫の漱石の文章について確認したいこと――具体的には「満韓ところどころ」中の“イン宣教師”と“リヴェリー”の表記――があり、「漱石全集」と照合しようと久しぶりに図書館に足を運んだのですが、第12巻だけ、誰かが借りたのかありませんでした。

 千代の富士が亡くなったという。さびしい。
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# by kaguragawa | 2016-07-31 22:58 | Trackback | Comments(0)

瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(1)   

 富山には滝廉太郎に直接、間接に関わる人が思いのほかに多い。
 東京音楽学校の廉太郎の学友で、廉太郎の死後、富山県に関わることになった人のことだけをメモしておきます。

 次稿に、『東京音楽学校卒業生名録』(大正十五年十月)から、廉太郎の卒業年次である明治31年前後の、卒業生の名前を本科専修部の生徒の分だけ写しておきます。ご覧ください。〔「明治三十一年七月卒業」の筆頭に「滝廉太郎」の名前があります。〕

 一学年上に、《桜井信彰》の名前が見えます。櫻井信彰(さくらい・のぶあき)は弦楽器の名手だったようです。在校当時も、演奏会で滝のピアノ、櫻井のヴァイオリン、一学年下の益山鎌吾のチェロの三重奏でブラーガ (Gaetano Braga) のセレナーデを演奏している記録が残っています〔1897.12.24の楽友会演奏会〕。その前後に撮られた3人の写った写真は紹介されることが多いので、目にする機会の多いものです。櫻井は、卒業後ケガのため演奏家としての道は断念し、音楽教師としての道を歩むことになりますが、なんとこの方の奥さんとなるのが富山の人なのです。土井フサ〔房〕さん。先日(27日)紹介した、土井宇三郎の姪です。そして、晩年(1945年)、櫻井信彰は孫の琉璃子と氷見に疎開、琉璃子が国泰寺末寺の宝光寺(氷見市加納)の住持と結婚したことで、氷見に住むことになり氷見で亡くなります。
(以上は、劔月峰『櫻散りぬ――ある小学唱歌教師一族の近代史』(文芸社/2007.4)に多く拠っています。)

 もう一人、注目すべきなのがやはりこれも一学年上の《高塚鏗爾》です。高塚鏗爾(たかつか・こうじ)は、廉太郎が1901(明治34)年4月6日に、横浜港からヨーロッパに旅立った際、日本最後の寄港地・長崎で滝を迎えています(9日)。長崎は当時の赴任先だったかと思われますが、高塚は夫婦で滝を迎え送っています。高塚は、長崎県師範学校などを経て、1908(明治41)年に富山県師範学校に赴任するのです。そして、高塚の音楽的感化によって、一人の若者が音楽に志すことになります。高階哲夫です。
 高塚鏗爾は、富山で多くの音楽教師を育てた富山の音楽界の恩人です。まずそのことをしっかりと覚えておく必要があります。その上で、考えておきたいのは、彼が小学校の音楽教師を育てていく中で、滝廉太郎の思い出を語り、なにより滝の音楽を富山に多く紹介したであろうことです。なお、高塚鏗爾は、『楽理研究』という本を、1917(大正6)年に中田書店から出しています。この中田書店の創業に同級の櫻井信彰の妻フサの伯父が関わっていたことなど知っていたのかどうかは、わかりません。またフサは初産を実家で迎えるために、夫・信彰の赴任地長崎から富山の土井家に里帰りしていますが〔1916(大正5)年〕、富山にいた高塚鏗爾がそうしたことを知りえる状況にあったのかどうかは不明です。(櫻井信彰=高塚鏗爾の間に、親しく近況の報告など手紙のやりとりがされていれば、その可能性はありますが。)
 残念なことに、私には、高塚が富山にいつまでいたのか、また、いつ亡くなったのかなど今のところまったく、わかっていません。が、今書いたように師範学校教師として多くの若者に接しているはずですから、教えを受けた生徒の証言がどこかに残ってないものなのか、そんなことも掘り出すことができればいいのに・・・と思います。

 隣県・石川県の第四高等学校に赴任した滝の後輩・新清次郎(あたらし・せいじろう)に関わる富山県人もいることと思われるが、新清次郎については別にふれることにします。
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# by kaguragawa | 2016-06-29 20:25 | Trackback | Comments(0)

瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(2)   

 『東京音楽学校卒業生名録』(東京音楽学校/大正十五年十月)から;
(滝廉太郎卒業年次〔明治31年〕前後の本科「専修部」卒業生のみ記載)
 ■当時、東京音楽学校は、「秋」入学でしたので、卒業は「7月」です。
   ☆字体は通用字体に直しましたが、仮名遣いはそのままです。

明治二十九年七月卒業
 安藤 幸  東京 (元 幸田)
 永井幸次  鳥取
 東 クメ  和歌山(元 由比)
 塚越クガ  東京
 高橋二三四 岩手
 草野トメ  長野 (元 鈴木)
 三沢ステ  東京 (元 小関)
 河野虎雄  東京
 山形キク  東京 (元 内田)
 片岡亀雄  東京
 米野鹿之助 三重
 林 ツル  三重 (元 上原)
 鈴木フク  滋賀

明治三十年七月卒業
 橋本正作  栃木
 神山末吉  東京
 高塚鏗爾  東京
 稲岡美賀雄 山形
 鴨下鹿衛  高知 (元 横山)
 桜井信彰  静岡 
 天谷 秀  東京
 田井ハル  滋賀 (元 林)
 小林ヤヘノ 京都
 園江トミ  東京 (元 武田)

明治三十一年七月卒業
 滝廉太郎  大分
 杉浦チカ  東京 (元 高木)
 栗本清夫  東京
 安藤カウ  東京
 石野 巍  東京

明治三十二年七月卒業
 神戸 絢  東京
 益山鎌吾  鹿児島
 田村クニ  富山 (元 河合)


〔大事な追記〕
 上掲の名簿をじっくりご覧になった方がおられるとすれば、気付かれたことがあるはずです。なんと、滝の一学年下に“河合クニ(田村クニ)”という富山県人の女性の名前が見えます。1900(明治33)年入学の上市出身の福井直秋よりも、滝と身近に接したはずの富山県人です。どなたか、このクニさんのことをご存知の方はおられないものでしょうか。

〔追記:2〕
 本文中もこの名簿も、明治32年7月卒業生「益山鎌吾」の名前は上掲資料に従い、“鎌吾”としました。“謙吾”となっている資料もありますが、私には「鎌」「謙」の正否を決める手掛かりがないので、ここでは引用元資料のママです。

 今日は、滝廉太郎〔1879.08.24~1903.06.29〕の命日である。

〔追記:2016.06.30〕
《河合クニ(田村クニ)》については、富山県内でその足跡が見あたらず卒業後は音楽教師の道にはすすまなかったのかと思っていましたが、大阪の清水谷高等女学校、神戸の親和高等女学校(現:神戸親和女子大学)の音楽教諭として田村クニの名前を見つけました。ほっとした気分です。
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# by kaguragawa | 2016-06-29 20:23 | Trackback | Comments(0)

「土井宇三郎」のこと(1)   

 いつのころからか、「土井宇三郎」という人のことが気になっている。
 富山県の書肆の草分けともいえる中田書店(現在の中田図書販売の前身)の支配人のような存在だったらしい(と思っていた)。。。

 たとえば、手元にコピーのある明治期の明治22年刊の「富山県職員録」の奥付には

  編輯者
   富山県平民
     中田宇兵衛
       富山県富山市大字富山材木町十五番地
  発行兼印刷人
   同 平民
     土井宇三郎
       同東四十物町二番地寄留
  発行所
   富山県大字富山東四十物町
     中田書店


 ・・・などと記されてあるからだ。

 といっても私の興味は、出版史よりも「古地図」にあったので、土井宇三郎の名前を意識したのも、明治20年(1887)の「富山市街図」にその名前を見てからだ。そのうちになんとなく中田書店と結びつけて頭に入ったままだったのである。
 気になりつつも忘れかけていた「土井宇三郎」の名前を思いがけず見つけたのは、昨年、確か高岡市の国泰寺のある末寺に関することを調べていたときだったと思う。意に反して?、滝廉太郎に関わるある思いがけない本を見つけた。さっそく入手した『櫻散りぬ――ある小学唱歌教師一族の近代史』(劔月峰/文芸社/2007)という、その本のページをくっていたときだった。そこに「土井宇三郎」の名があったのだ。つながりもないと思われていたことがら〔国泰寺/滝廉太郎/土井宇三郎〕が、“櫻井信彰”という唱歌教師を中心に、いくつも重なって湧出してきて頭が整理できず、幸いなことに当時パソコンの調子が悪かったこともあり、このブログにも書かずじまいになったのである。

 まだまだわからないことだらけだから報告は後日としたいが、滝廉太郎の命日を直前にして、土井宇三郎の名前を思い出したので、次のことだけ書いておくことにしよう。
『櫻散りぬ』によれば、土井宇三郎は最初は、個人で?書籍刊行を始め、この土井の事業が中田書店に引き継がれたようだというのである。(続きは、後日・・・。)


〔追記〕 
 今、国会のデジタルライブラリーに見てみると明治16年の「富山県職員録」の奥付はこうなっている。

  編輯兼出版人
   富山県平民
     土井宇三郎
      越中国上新川郡東堤町二十二番地居住


 さらに溯ると、明治14年(1881)に『日日晴雨参考表』というものが土井の名で公刊されている。
 このようなものがどのような目的で出版されたかもとても興味あるところなので、できればお暇な方はのぞいてみていただければと思う。
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831893
 この奥付には、

   明治十四年二月出版御届
   同 三月 刻成発兌
  
   著者出版人
    石川県上新川郡富山東堤町
      土井宇三郎

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# by kaguragawa | 2016-06-27 20:26 | Trackback | Comments(1)

啄木日記の「亀田氏」   

 啄木が東京帝国大学の赤門前で、亀田氏から独歩の訃報を聞いたという、その「亀田氏」とは誰なのか。啄木研究の現状にうとい私には、情報がなく、不明である。
 で、私なりに推測してみるに・・・

 啄木を文学に志す若者と知って独歩の死亡を告げているので、それなりの面識はあったのだろう。としても、この年(1908年)の4月に上京してきて本郷界隈でそんなに知友の多くないことも考えれば、5月3日の啄木日記に「金田一君を訪ねて亀田といふ余程の変人に逢ふ。」とある「亀田」とこの「亀田氏」は、同一人物かと思われる。そこで、金田一京助と縁があり、独歩のことを知っている人物とすれば、言語学者・亀田次郎の可能性が大きいのだが、「余程の変人」というのも、傍若無人とも評される亀田氏の人柄に合致するようにも思われるのだ。
 ところで、亀田次郎は、啄木日記に「亀田氏」が登場するまさにその1908年に、東京から鹿児島の第七高等学校に赴任しているという。この赴任が年初であれば《「亀田氏」=亀田次郎》の可能性はほとんどなくなるが、一方、当時の旧制高校は秋入学であり、新年度に合わせた赴任が7月以降であることも考えられ、そうなれば《「亀田氏」=亀田次郎》の可能性はぐんと高くなるのだが・・・。
 推測の及ぶのはこの辺りまでだ。私の楽しみとしては、別の手掛かりが運よく見つかるのを待つしかあるまい。

 金田一京助に、亀田次郎のことを書いた「亀田吟風翁素描」というエッセイがあるよし。読んでみたい。柳田国男に金田一京助を紹介したのは、亀田次郎だというエピソードのことも確認できるかも知れない。

※亀田次郎 1876.09.11~1944.02.08
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# by kaguragawa | 2016-06-24 23:14 | Trackback | Comments(0)

真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!   

 独歩の最期の身近にいた真山青果の当日の報告によれば;

 「国木田独歩氏は、今日――六月二十三日午後八時四十分、相州茅ケ崎南湖院第三病室に瞑目された。」

 この報は、もう翌日には東京の文人には知れていたようで(青果の報告に「諸方に打電す」とあるし、未確認だが第一報を載せた新聞があったようだ)、翌24日の啄木の日記に出てくる。
 “一人散歩に赤門の前を歩いてると亀田氏に逢つて、国木田独歩氏、わがなつかしき病文人が遂に茅ケ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてその儘真直に帰つた。
 独歩氏と聞いてすぐ思出すのは“独歩集”である。ああ、この薄倖なる真の詩人は、十年の間人に認められなかつた。認められて僅かに三年、そして死んだ。明治の創作家中の真の作家――あらゆる意味に於て真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!”


 ところで、独歩が亡くなった23日の夜、――前日の「赤旗事件」とも、この日夜の独歩の死とも無関係のことだが――啄木にある内的事件が起こっていた。
 “昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。”
 そしてこの湧くように歌がでてくる状況はしばらく続く。25日には“頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。”と・・・。
(註:これらの歌は、直後の『明星』7月号に「石破集」として掲載。)
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# by kaguragawa | 2016-06-23 20:40 | Trackback | Comments(0)

108年前の「夏至の日」   

 のちに「赤旗事件」と呼ばれるようになった社会主義者と警官の小競り合いが起ったのは、1908(明治41)年6月22日でした。この年は、この22日が夏至の日でした。
(「赤旗事件」――この小競り合い程度のものが、逮捕者の禁固実刑につながる刑事事件にまで仕組まれた(*)事件です。この事件が、西園寺内閣を桂内閣に代え、桂内閣のもとでこの事件の審理がおこなわれ、さらに「大逆事件」がつくられていきます。)

 この日のことを、荒畑寒村は『寒村自伝』で次のように振り返っている。
 「日の長いさかりの真夏の白昼、濛々と立ちのぼる砂煙りの中に旗の影はたちまち現われたちまち消え、(中略)喧々囂々としてまるで市街戦でも始ったようだ。」
 6月22日が「夏至」であることから、“日の長いさかり”はまさにそのとおりなのだが、少し気になるのは続いて、“真夏の白昼”と書かれている点である。寒村が自伝を書こうとした時点で、記憶はあいまいになっており錯綜もしていたのではなかろうか。
 なぜなら、神田錦町の錦輝館で行なわれた山口義三の出獄歓迎会は午後から始まり、「騒動」は閉会間際の午後6時くらいにおこったからだ。まさに夏至の時期だから6時でも明るかったのだろう。だが、「白昼」はふさわしくなかろう。
 これも寒村の記すところに拠れば「私の間借りしている家の主婦に頼んで、赤地の布に「無政府共産」とか「無政府」とか、白いテープの文字をミシンで縫いつけてもらい、手ごろの竹竿を買って来て二旒の旗をこしらえた。」というその赤旗を、ある者が錦輝館を出た路地で振り回したことから警察官との小競り合いがはじまり、大杉栄、堺利彦、山川均、管野スガら16人が逮捕されたのである。

 ただ、寒村の「白昼」の記憶があやしくなっているのは、時間帯のことだけではない。(寒村を批難するために書いているのではなく、この日のことを正確に記憶したいがために書いています。誤解のないように。)この日は、「白昼」ということばが似合うような晴天の日ではなかったようなのである。現場から直線距離で2キロ余り離れた場所に住んでいたある青年の当日の日記に拠ればこうだ。

 六月二十二日
 曇つた日であつた。
 午后に金田一君、昨夜の話、手踊人形で大に笑ふ。夕方、また歩きに行かうと云ふので、二度出かけたが、其度雨が落ちて来たので唯もどり。

 この日(22日)は「曇った日」で、事件が起きた夕方は「雨が落ちて」くることもあったというのだ。夕方、神田周辺に雨が降ったかどうかはともかく、この日は晴天でなかったことは確かだろう。

 なお、この日記を書いた青年は、この翌日みずからの内的事件に出会い「一握の砂」に結実する詩人の道を宿命づけられていくのだが、一方でこの赤旗事件のあとに次々と起きてくる権力の犯罪の結末「大逆事件」に真正面から向き合うことをも自分の使命とするにいたる。ともに事件から2年後のことである。いうまでもなくこの青年は、石川一(はじめ/啄木)である。


 (*)この山口義三歓迎会の司会を勤めた石川三四郎は、この摘発事件が事前事後において仕組まれたものであったことから事態を「不可解な大騒動」と適切に要約したが、事後の「仕組み」については、一例として、この事件の東京地裁の公判筆記の一部を当時の『熊本評論』に掲載されたものから、引く。森岡永治の弁明から。(多少送り仮名などを補いました。)

 「余は大森巡査の指を噛み四日間の休業を要するまでの負傷をせしめたりと調書に在れども、同巡査が、余の被れる帽子なりとて此処に提出せる証拠品は、余の全く見覚えなきものなり、余は一個の帽子にて満足す、二個の帽子を要せず。彼の当時被りたる一個の帽子は、目下東京監獄に在り。是等の事実を以て見るも如何に警官が事実を捏造するに巧みなるか知るに足らん。尚お巡査は負傷せし際、何れにて何時負傷せりとも覚えずと予審廷に述べしにあらずや、既に何れに於て何時負傷せしとも記憶せざる程の創なるに何故加害者の余なる事を知り得たるや、不思議なり。且つ余は虫歯を患うるものなり、人に食い付きて四日間の休業をなさしむる程の資格を有せず」
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# by kaguragawa | 2016-06-22 20:30 | Trackback | Comments(0)

夏至の日   

 去年の今頃も、「日が長くなったな、そろそろ夏至なのかぁ」と、7時に田舎駅について自宅に向かう道すがら思っていたら、ちょうどその日が夏至の日だったということがあった。きのうも、同じ思いをして確かめたら、今日が「夏至」だった。この一年間、いったい何をしてきたものかと、悔悟の思いが強い。

 ふと、「あの日も、もしかして、ちょうど夏至だったのではないか・・・」との思いがよぎり、確認したところ、〔あの日=1908年6月22日〕も、はまさに夏至にあたる日であった。

 夏至だからといって、何かが大きく前日と異なるわけでもなく、翌日とも異なるわけでもないのだが、私にとって気持のうえで毎年不思議な節目になっている特異日?である。
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# by kaguragawa | 2016-06-21 11:05 | Trackback | Comments(0)

渡良瀬の人々――謝花昇(旧稿)   

 以下は、十年余前に書いたもの。今日、あることを調べていて“謝花昇”の名前を見つけ、そういえば・・・と古いものを探し出しました。2005年9月28日に書いたもの。

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 田村紀雄『田中正造をめぐる言論思想――足尾鉱毒問題の情報化プロセス』(1998.9/社会評論社)

 足尾鉱毒問題を扱ったこの本に、“謝花昇”の名前を見つけて、体がほてるほど興奮してしまいました。鉱毒問題のまだ広く世に知られる前、鉱毒被害の実態をいち早く調査したのが、農科大学の古在由直でしたが、そのころ、謝花は農科大学に在籍していたというのです。といっても、謝花昇についてなにほどのことも知るわけではありません。ただ明治時代の沖縄が、謝花という稀有の人物を介してこの渡良瀬に直結しているような気がして不思議な感慨にとらわれました。

 なお、当時の農商務大臣・榎本武揚が津田仙に同行し足尾鉱毒の被害地に足を運んだこと。その後の榎本の生き方。津田仙自身の生き方・・・。
 それにもまして渡良瀬流域に生れそこに生きた農民の――そこに集約点として田中正造という稀有の人材がいたことは今さら言うまでもないことでしょうが――「個としての、コミュニティとしての」鮮烈な生き方を、この本は淡々と伝えてくれています。
 足尾鉱毒問題をたどること。かなりさぼっていましたが、少しずつでも続けていきたいと思っています。
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# by kaguragawa | 2016-06-17 23:24 | Trackback | Comments(0)

啄木日記の「碧海君」   

 ひょんなことから、石川啄木の日記に何回か(何度も?)でてくる「碧海君」のことが少しわかった。この「碧海君」とは、碧海康温(あおみ・こうおん/やすはる)。当時、東京帝国大学の学生だった青年だ。金田一京助の第二高等学校時代の同窓(同級?)で、ともに東京帝国大学文科大学(のちの文学部)に進んだ縁で、京助と親しく、金田一のもとをたずねた啄木とも知友になったようだ。1907年7月、京助は帝大文科大学言語学科を卒業し樺太に渡りアイヌ語研究をした後、翌年4月から霞ヶ関にあった海城中学校に講師として勤めていたが、碧海康温の方は、哲学科を卒業(1908年?)した後、帝大理科大学地質学科に入りなおしたので、まだ学生だったようだ(1911卒業)。
〔帝大創設時からあった地質学科は、1907年「地質学科」「鉱物学科」に分けられた。この新・地質学科には、碧海のほか江原真伍、大橋良一、河村幹雄、中尾清蔵などのちに地質学会の中心となる錚々たるメンバーがいた。〕

 碧海康温氏。愛知県碧海郡阿乎美村の生まれで、今も岡崎市にある慈光寺という浄土真宗の由緒ある寺の跡取りだったが、弟が寺を継ぎ、本人は学究の道を進んだようだ。(阿乎美村→上青野村→1906六ツ美村→六ツ美町→1962岡崎市)。愛知県からはるばる仙台の二高に進んだきっかけや、大学(哲学科)卒業後、地質学科に再入学されたことなど(その後、研究と教育に従事)、さらに弓道とのかかわりなどなど興味尽きない人である。

 ※金田一京助 1882.05~1971.11.14
   碧海 康温 1883.01~1943.05.28
   石川  一 1886.02~1912.04.13

 なんと驚いたことに、この碧海康温氏、先年亡くなられた法哲学者の碧海純一さんのお父さんなのであった。碧海純一さんが3年前に亡くなられたこともうかつなことに実は昨日になって知った次第なのですが、碧海純一さんのお父さんが啄木の日記に登場する「碧海君」であることも、長尾龍一さんの碧海純一さん追悼文で知ったのでした。
 確か5年ほど前に啄木の日記をざっと通読した際、「碧海」という風変わりな姓を目にしてまっ先に思い浮かんだのは、碧海純一さんのことだったのですが、そのときは確かめる手段もなかったのですが、碧海純一さんが亡くなられたことを機縁にそうしたこともわかったのでした。


 なお、以下は啄木日記の「碧海君」抜き出しメモ一覧です(1908.04啄木上京後)。ほかにも登場箇所があるかも知れません。あくまで参考に。


1908:明治41年7月7日
 四時半頃金田一君の室にゆくと、碧海君と橋本とかいふ人が来てゐた。その二人が帰つて、九時過ぎまで語つた。

同年8月(19日?)
 十七日より今日まで、毎日金田一君碧海君と共に将棋を戦はせり。義太夫は将棋に代れるなり。

同年9月29日
 夜、碧海君が来て詩談。明日は晦日だと思ふと、心は何かしら安からぬ。此日は一日雨。

同年12月5日
 遠藤から手紙。せつ子へ久振に手紙をかいた。九州の菅原芳子と平山良子へも手紙かいた。良子には明星百号送つた。内海信之へハガキを添へて原稿を返してやる。
 夜、碧海君


1909:明治42年4月11日 ※ローマ字日記
 11 TH, SUNDAY.
 Kindaiti-kun no Heya ni wa Awomi-kun ga kite ita. Yo mo soko e itte I jikan bakari Muda-banasi wo sita. Sosite kono Heya ni kaetta.
 (金田一君の部屋には碧海君が来ていた。予もそこへ行って一時間ばかり無駄話をした。そしてこの部屋に帰った。)



 余分なことながら、上に「碧海純一さん」と親しげに書いたのは、我が身の丈に余るマックス・ウェーバーの難解な論文を読んでいた学生時代、書籍の上のことながら、多くのことをわかりやすく教えていただいたご恩によるもの。
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# by kaguragawa | 2016-06-15 19:37 | Trackback | Comments(0)

「袖ふれ合うも多生の縁」   

 きのうが、高橋治さんの一周忌、岩城宏之さんが亡くなって10年にあたる年でした。

 お二人とも、文字通り「袖ふれ合う」程度のご縁が、――岩城さんは私の10代に、高橋さんは30代に――ありました。そして、これもこの歳になって文字通り「多生の縁」を、我が生において感じています。
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# by kaguragawa | 2016-06-14 22:39 | Trackback | Comments(0)

生田春月の死   

 播磨灘に船上から身を投じたという詩人・生田春月の遺体が見つかったのは、今日、1930年の今日6月11日だという。

 ※生田春月 1892.03.12~1930.05.19
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# by kaguragawa | 2016-06-11 23:24 | Trackback | Comments(0)

夢二一行、黒部峡谷に遊ぶ   

 6月10日が、昭和3年(1928年)に竹久夢二が黒部峡谷に遊んだと日だいうことは、前にも書きましたが、この日の黒部峡谷行については思いのほかいろんな記録が残っていることがわかりました。しかもこうした記録の存在は偶然のことではなく、こうした紀行を雑誌の記事にするために仕組まれた一連の企画があったのです。
 峡谷行に同道したのは夢二と翁久允の二人だけではなく、多くのにぎやかなメンバーといっしょだったのです。

 いずれ、そうしたことをこの記事に書き足したいと思っています。いずれ。いずれ。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 23:56 | Trackback | Comments(0)

『名訳詩集』   

  『名訳詩集』 西脇順三郎・浅野晃・神保光太郎編/1969/白凰社 。

 饗宴。ここに凝縮されて示されてあるものの重さというか大きさに厳粛な気持ちになる。

 ここに集められた名詩を世に送り出したのは有島武郎、生田春月、生田長江、上田敏、尾上柴舟、片山敏彦、蒲原有明、小牧健夫、西条八十、山宮允、塩井正男、神西清、吹田順助、鈴木信太郎、高村光太郎、竹友藻風、茅野蕭々、土居光知、永井荷風、中原中也、中山省三郎、夏目漱石、新関良三、西脇順三郎、野口米次郎、昇曙夢、長谷川二葉亭、堀口大学、松浦一、三好達治、森鴎外、柳宗悦、矢野峰人、山内義雄、米川正夫。
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# by kaguragawa | 2016-06-10 22:42 | Trackback | Comments(0)